10 鶴舞藩・県の諸禁令

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鶴舞藩・県は、短い統治期間に多くの禁令を布達している。中央政府の方針を反映したものが多いが、中には藩独自のものもある。
 明治二年一一月八日、官吏出張の際の茶菓や酒肴の接待を禁じ、同一五日には奢侈の禁令を発した。同二五日、前々から繰返し禁じていた博奕を更に厳禁した。博奕は諸悪の根源として、例を挙げて説諭している。しかし、江戸時代と同様に、根絶することはむずかしかった。古老の話によると、明治後期に至っても、「チョボイチ」と称する博奕が盛んに行なわれ、その負債のため田畑の異動が烈しかったという。
 同年一二月、無断集会の禁令が出た。「何ニ寄ラス、村役人へ無沙汰ニ小前寄集リ、申談或ハ申合致候儀、御制禁ニ候」という文言は江戸時代そのままである。明治になっても一揆は絶えず、支配者は下層農民の団結を恐れていた。
 明治三年一〇月、従来の質地証文で認め方が定法に合っていないものは、総て書替えを命ぜられた。証文に年季を入れず、ただ「金子有合次第」に請戻(うけもど)すというのが、たくさんあったとみえ、「当国ノ弊風」と指摘し、一〇か年以内の年季や質地名所、反別を明記し、村役人が加判することを指示している。この不完全な質地証文のため、質地訴訟が多発することを恐れたものであろう。同年一二月一三日、富(とみ)会・頼母子(たのもし)講を博奕に似ているとして禁じた。明治四年正月一三日には、社寺境内、持添山林の竹木をみだりに伐採してはならないと布達している。
 禁令の徹底を図るため、村々から人格、識見のすぐれた者を選び、敷教小助という役に任命し、人民の教諭に当たらせたことは、他に例をみないものである。敷教小助というのは、他の藩県にないので、その職務が明確でないが、禁令の中の次のような文言で大よそのところは推察できる。博奕の禁令に「小前末々迄無漏敷教小助名主共ヨリ可申達事」とある。また、無断集会の禁令に、自分の村の役人に相談しにくいことは、「組合村役人、又ハ敷教小助等」へ相談するよう指示している。上意を下達するだけでなく、村役人等に対する不満の相談相手でもあった。
 明治三年(一八七〇)四月二五日、徳増村名主であり、敷教小助でもあった一朗は、「敷教小助申付置候処、御旨意ヲ奉シ励精尽力候段、一段之事ニ候、依之御賞頭書之通下賜候、以来袴着、用向可相勤候事」として、袴地一反を贈られている。この一朗なる人物は、同年二月一一日の茂原村大火の際も米金等を救恤して褒詞を受けた。
 このような方策は、江戸時代のような頭から禁圧するものでなく、教え諭すというもので、一応の進歩である。とにかく東海道筋の比較的先進地から半島部の僻国に移ってきた鶴舞藩士には、上総の地の弊風が目立ったようである。それだけに清新な気持で飢饉対策、貧老者の賑恤、堕胎防止、学校(克明館)の開設、種痘の実施、忠孝節義者の褒賞等に意欲的に取組んだことが認められる。しかし、明治四年七月一四日、井上正直は知事を免ぜられて東京に去り、その庁舎、邸宅は民間に払い下げられ、治績は定着しないままに終わった。ただ、鶴舞の街は今でも残っている。