明治四年一一月一三日、安房・上総の諸県を廃して、木更津県を下総の九郡(千葉・印旛・埴生・葛飾・結城・相馬・猿島・岡田・豊田)に印旛県を置き、また、常陸の土浦を中心とする新治県に香取・匝瑳・海上の三郡が属した。印旛県の結城・相馬・猿島・岡田・豊田の五郡は、後に茨城県に属し、新治県の香取・匝瑳・海上の三郡が千葉県に属して、利根川と江戸川を境とする現在の千葉県域が成立したのは明治八年になってからである。
木更津県の県庁は木更津に置かれ、宮谷県権知事であった柴原和が権令となった。木更津県の管轄は安房・上総東西およそ一二里、南北およそ一九里、面積およそ一七八方里、旧草高五二万石余、安房国四郡、上総国九郡、村数合わせて一四七五か村、人口およそ五七万八九二七人であった。
木更津県が発足したのは明治四年一一月一三日、これが千葉県となったのは六年六月一五日であるから、約一年七か月の短期間であったが、近代的行政組織はこの期間に整えられ、その行政成果もみるべきものが多い。
柴原和は、『播州竜野の藩士柴山左五七の第三子で、天保三年の出生である。名は和(やわら)、字は節子といひ靖盧と号した。弱冠にして江戸に游び大槻磐渓、安井息軒に学び、又京阪に游び、梁川星巌、落合雙石、後藤松陰に師事し、夙(つと)に尊攘の志を抱き、志士と交り、頗(すこぶ)る王事に勤労し、明治二年召されて待詔院に出仕し、やがて甲府県大参事、岩鼻県大参事に歴任し、尋(つい)で宮谷県権知事となり、明治四年十一月木更津県権令に任ぜられた』(15)後印旛県権令を兼ね、千葉県発足とともにその権令に任ぜられ民政に関するすぐれた施政は高く評価せられている。
柴原和の木更津県権令としての施策には、育子教諭、戸長制の制定、学制の施行等があるが、これらは独立した項で詳述したい。その他の施策について次に略記してみる。