16 褒賞

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明治初期は、忠孝節義の者を盛んに褒賞している。文明開化を唱えても、統治の根幹に儒教的道徳律を置いているところに、明治政府の体質を感じさせられる。この忠孝節義に対する感覚について、次のような例がある。
 埴生郡佐坪村農業織本梅吉の父久左衛門は、明治二年八月磐城(いわき)国磐城郡小河村脱籍人某のため殺害された。梅吉は復讐を決意し、鶴舞藩の免許を受けて某を追った。明治四年九月某日銚子港で仇を発見したが取逃してしまった。その後某は高崎藩捕亡吏に逮捕され、木更津県に送付されて来た。梅吉は宿志を遂げようと県庁へ願い出たが許されなかった。しかし、梅吉の哀願が続くので、木更津県では処刑の斬首人に梅吉を当てようとして司法省に伺いを立てた。司法省はこれを許可しなかった。(17)
 これで、私怨は許されず、公法をもって裁くという近代的法治主義が貫かれたのであるが、このような記録が官撰の『木更津県歴史』褒賞の部に載っているということは、仇討ちを最高の美徳とする思想が濃く残っていたことを示している。「数年胆薪(たんしん)、念ヲ絶タズ」に父の仇を討とうとした梅吉の行動は、まさに、孝子の鑑として受けとめられた。