江戸時代の租税は、村民個人にかけられるのでなく、村にかけられた。租税は米に換算したその村の生産額、つまり何百石という村高に対し一定の率をもって賦課された。各個人の納税額は、村内で内割りされたものである。従って、完納できない者があると、村全体として他の者が肩代りして上納した。税率は支配者により違いがあり、検見(けみ)による減免も絶えず行なわれていた。定免(じょうめん)が一般化してからも損毛三分以上ならば破免検見がなされ、税収はきわめて不安定であった。
明治政府は、江戸時代の税制をそのまま引継いたのであるが、近代国家を目指す新政府にとっては真に不便不利な税制であった。第一に、米価は絶えず変動するので歳入予算が確定しない。検見により減免すれば、歳入はたちどころに減少してしまう。第二に、旧幕時代のままでは地方により多少とも税負担の軽重があり、このことは、統一的中央集権支配と矛盾した。第三に、現物貢納は小地域では処理のしようもあるが、全国的規模となると輸送、保管、販売の面で手間と費用がかかり過ぎた。封建的年貢制度を改革しなければならないとする気運は、新政府樹立直後からあったが、廃藩以前には不可能なことであった。
明治四年七月一四日、廃藩置県が断行される前後から、地租改正への具体的動きが現れはじめた。その第一歩が年貢の代金納許可である。既に三年九月から畑年貢の代金納が認められていたが、四年五月には田年貢も金納でよいことになった。このことは、田に米を作らなくとも、米年貢に相当する金銭を納入すればよいということであり、田にいかなる作物を作ってもよいことを暗に容認したことになる。ついで四年九月には、正式に田畑作物の自由が認められ、更に五年二月には田畑永代売買の禁が解かれた。同年七月には、土地所有者に地券を与え、その私的所有権を確認するに至った。このことは、個人別に地租を課する第一段階であった。
明治五年の規定により発行された地券を壬申(じんしん)地券というようになった。国府里区に、明治五年一一月の「持地一筆限小拾(こびろい)帳」が蔵されている。小拾帳とは、田畑などの字・等級・反歩を一筆ごとに詳細に記録したものである。これが地券発行の基礎資料となった。針ケ谷村小倉喜与巳家に蔵された明治六年の地券は珍しいものである。後に、地租改正の進行とともに発行された印刷した地券と交換したので、手書きの地券は容易に見ることができない。地券発行は、土地の私的所有権を明確にし、地価を定め、所有権者ひとりひとりに定率金納貢租を課すための準備であった。かくて、明治六年(一八七三)七月二八日、地租改正条例が布告された。
壬申地券(針ケ谷 小倉喜与巳家蔵)
千葉県でも明治六年から地租改正業務をはじめたが、遅々として進まなかった。県令柴原和は、先ず安房一国につき、全国に先がけて模範的な地租改正を実施しようと意気込んだが、県庁の焼失事件や啓蒙不足による房州人の抵抗にあい中断してしまった。
千葉県だけでなく、全国的に改正事業が停滞していたので、明治八年(一八七五)に至り、太政官達によってきびしい督促があった。そのため、各県とも漸く本腰を入れて改正事業に着手した。
千葉県では、村用掛の外に、専任の地租改正事務掛を置いて事業の促進を図った。地租改正専務であった小榎本村前田正作の「地租改正巡回簿」によると、地租改正事業に当たった村用掛または事務掛は次の人々である。
地租改正巡回簿
(小榎本 前田政之丞家蔵)
小榎本村(渡辺義平・田辺栄吉)徳増村(高仲与市)桜谷村(阿部多十郎・阿部政平・仲村新太郎)長富村(小出三郎平・小出長作・小出清蔵)鴇谷村(石川勝五郎)針ヶ谷村(小倉喜代次郎・三橋太平)立鳥村(安藤文内)田代村(鶴岡仁右衛門・田代喜太郎)刑部駅(斎藤次郎作)大津倉邨(むら)(石井精一郎・鶴岡惣八郎・石井六平)高山村(太田甚作)笠森村(作久間荘作)大庭村(鎗田庄五郎・荒井初太郎)深沢村(石川吉平)榎本村(高橋芳太郎・小倉忠蔵・尾高子之吉)金谷村(吉田平五郎)
これらの人々の勤務状況は次のようにきびしいものであった。
一、午前第六時鐘ヲ打出頭直ニ事務ニ就クヘシ
一、午前第七時柝(たく)ヲ撃朝餐(うちちょうさん)ヲ喫ス
但三十分時間ヲ経テ撃 再事務ヲ始ム
一、午前十二時柝ヲ撃 午餉(ごしょう)ヲ喫ス
一、午後一時柝ヲ撃 事務ヲ始ム
一、午後六時柝ヲ撃 晩餐ヲ喫シ 三十分ヲ経ハ再柝ヲ撃 且灯ヲ照シ事務ニ就クヘシ
一、午後九時鐘ヲ撃 一同退場之事(26)
一、午前第七時柝(たく)ヲ撃朝餐(うちちょうさん)ヲ喫ス
但三十分時間ヲ経テ撃 再事務ヲ始ム
一、午前十二時柝ヲ撃 午餉(ごしょう)ヲ喫ス
一、午後一時柝ヲ撃 事務ヲ始ム
一、午後六時柝ヲ撃 晩餐ヲ喫シ 三十分ヲ経ハ再柝ヲ撃 且灯ヲ照シ事務ニ就クヘシ
一、午後九時鐘ヲ撃 一同退場之事(26)
地租改正専務前田正作は、明治八年一二月八日から九年一〇月一六日までに担当区域である一二小区を巡回し、改正事業の指導に当たった。
改正事業の第一歩は、土地の丈量と地図の作成であった。地租は民有地に課されるので、先ず官民有地の区分がなされた。この際、民有地として証拠不十分な土地は官有地とされた。また、村有地として地券を受けるのに、事務の繁雑さをいとい、代表者の個人名義で申告したため、遂に個人の所有に帰した土地もあったといわれている。反対に、地券を受けると高い税金を払わなければならないとのうわさにおびえ、故意に申告せず所有権を失った者もあった。しかし、このような問題が起きたのは、主に山林・原野で、明治八、九、一〇年の段階では、田畑屋敷の丈量と地価の算定で精いっぱいであった。
一筆限地図帳
(田代卓家蔵)
地位等級一筆限帳
(国府里区有)
田代村地図(田代卓家一筆限地図帳)
明治九年の「国府里村地引帳」によると、第七大区一三小区国府里村の民有地は別表のとおりである。
国府里村民有地 明治9年4月
(国府里区所蔵地引帳による)
国府里村民有地 明治9年4月 (国府里区所蔵地引帳による) |
種 目 | 町 | 反 | 畝 | 歩 |
総 計 | 36 | 5 | 6 | 27 |
田 | 19 | 8 | 7 | 15 |
畑 | 9 | 8 | 7 | 17 |
宅地 | 2 | 2 | 1 | 20 |
山林凡 | 4 | 3 | 3 | 6 |
竹籔凡 | 3 | |||
稲干場凡 | 20 | |||
神社境内 | 1 | 24 | ||
堂宇敷地 | 20 | |||
寺院境内 | 1 | 1 | 5 | |
村社境内 | 3 | 5 | ||
墓地 | 5 | 20 | ||
斃馬捨場凡 | 25 |
地引帳の後書には、次のように記されている。
右ハ今般税法御改正ニ付銘々(めいめい)持地私共立会従前ノ隠田切開繩伸(なわのび)ノ類迄地毎ニ取調ケ所落(かしょおち)ハ勿論隠地等一切御座無候コレニ依リ地主一同調印ヲ以テ申上奉リ候 以上
第七大区拾三小区
明治九年四月 上総国長柄郡国府里村
小前惣代 小野吉作印
事務掛 木嶋金一郎印
用掛 高吉金平印
右副戸長 林太郎吉印
戸長 山崎覚蔵印
千葉県令
柴原和殿
明治九年四月 上総国長柄郡国府里村
小前惣代 小野吉作印
事務掛 木嶋金一郎印
用掛 高吉金平印
右副戸長 林太郎吉印
戸長 山崎覚蔵印
千葉県令
柴原和殿
明治九年九月から地位等級の調査に取掛った。この調査は、地主の利害と直接関係するので困難をきわめた。この等級により地価が決定されるので、地租改正反対の農民暴動が全国各地で発生した。千葉県でも反対運動は起きたが暴動までには至らなかった。
千葉県では、各村土地の地租負担の均衡を図るため模範村を設け、その村の土地を九等級に分けて近村の範例とした。関係町村は、模範村を見習って等級を決定していった。地価は、その土地からの収穫代金を算定し、これから種籾代、肥料代、諸村料費、道具費、税金等を差引いた残額を収益とみなし決定した。そのため、明治三年から五か年間の米麦価の平均価格を算定している。
第七大区一二小区第一二番組榎本村の収穫米麦一反歩当たりは別表の如くである。なお、地価は、水田収穫米一石につき三九円二七銭、畑収穫麦一石につき一四円四五銭であった。(27)この外、入付(いれつけ)(小作料)の一〇倍を地価として売買していたような、その土地の慣行も取入れたようである。租率は、地価の三%と定められたが、農民の抵抗にあい二・五%に下げられた。
1反当たり収穫米麦及び宅地地価,明治11年7月 榎本村
(榎本 川崎主計家所蔵)
1反当たり収穫米麦及び宅地地価,明治11年7月 榎本村 (榎本 川崎主計家所蔵) |
等級 | 田(米) | 畑(麦) | 宅 地 | |||||||
石 | 斗 | 升 | 合 | 石 | 斗 | 升 | 合 | |||
1等 | 甲 | 1 | 4 | 7 | 1 | 6 | 7 | 24円 | ||
乙 | 1 | 3 | 9 | 5 | 1 | 5 | 9 | 5 | 22円 | |
2等 | 甲 | 1 | 3 | 2 | 1 | 5 | 2 | 20円 | ||
乙 | 1 | 2 | 4 | 5 | 1 | 4 | 4 | 5 | 18円 | |
3等 | 甲 | 1 | 1 | 7 | 1 | 3 | 7 | |||
乙 | 1 | 9 | 5 | 1 | 2 | 9 | 5 | |||
4等 | 甲 | 1 | 2 | 1 | 2 | 2 | ||||
乙 | 7 | 4 | 5 | 1 | 1 | 4 | 5 | |||
5等 | 甲 | 8 | 7 | 1 | 7 | |||||
乙 | 7 | 9 | 5 | 9 | 9 | 5 | ||||
6等 | 甲 | 7 | 2 | 9 | 2 | |||||
乙 | 6 | 4 | 5 | 8 | 4 | 5 | ||||
7等 | 甲 | 5 | 7 | 7 | 7 | |||||
乙 | 4 | 9 | 5 | 6 | 9 | 5 | ||||
8等 | 甲 | 4 | 2 | 6 | 2 | |||||
乙 | 3 | 4 | 5 | 5 | 4 | 5 | ||||
9等 | 甲 | 2 | 7 | 4 | 7 | |||||
乙 | 1 | 9 | 5 | 3 | 9 | 5 | ||||
10等 | 甲 | 2 | 4 | 5 | ||||||
乙 | 1 | 7 | ||||||||
平均 | 1石1斗9合 | 1石9合5勺1才 | 20円69銭9厘 |
明治九年が中央政府から達せられた地租改正の完成期限であったが、拙速主義で進めた作業も遅れ勝ちで、田畑宅地について明治一一年にやっと完成した。このときから、壬申地券と交換で新しい地券が交付された。新地券には、地価と地租が明記されている。この地券を受けることは、その私的所有権を保証される反面、収穫の多少に拘わらず一定の地租を負担することを意味した。租税負担額は、ほぼ江戸時代と同額であったが所により高額になった場合もあった。
地券(大庭 鎗田寿家蔵)
一方、小作料は旧来通りの現物納で少しも改正されず昭和二〇年ころまで続けられた。
山林・原野・雑種地等の地租改正は、明治一三年(一八八〇)一月から始められ、短期間に終了している。等級は、竹生、萱生地のように年々収益のある土地を一級とし、生育が良くても輸送に不便な土地は二級とするように細かな配慮がなされていた。
別表は、第七大区一二小区の山林原野地位等級比準表である。各村ごとに等級を決めても、他村との相対的な等級とならぬので、一六か村で協議して比べる基準を定めたのである。榎本村で一等と考えていた山林も、一六か村全体から評価すると三等にしか該当しない。このようにして地租の公平を期したのである。等級別山林原野の地価は別表のとおりである。地積、等級、反当地価が決定すれば、一筆ごとの地価の算定は容易である。かくて、明治一四年五月二五日、戸長及び各組総代人が高師駅に参集し、最終的調整をした後、若林八等属に書類を提出した。(28)明治一四年の国府里村の平均地価は別表のとおりである。なお、学校、病院、郷倉、牧場、秣場、社寺、斃馬捨場等は、地券を発行しても地租はかけられなかった。
榎本 川崎主計家所蔵 明治13年11月4日 |
山林原野地位等級比準表 長柄郡榎本村 | |||||||||
階級 村名 | 一等 | 二等 | 三等 | 四等 | 五等 | 六等 | 七等 | 八等 | 九等 |
榎本村 | 一等 | 五等 | |||||||
小榎本村 | 一等 | ||||||||
徳増榎 | 一等 | ||||||||
桜谷村 | 一等 | ||||||||
長富村 | 一等 | ||||||||
鴇谷村 | 一等 | ||||||||
立鳥村 | 一等 | ||||||||
針ケ谷村 | 一等 | ||||||||
金谷村 | 一等 | 六等 | |||||||
刑部村 | 一等 | ||||||||
田代村 | 一等 | ||||||||
大津倉村 | 一等 | ||||||||
大庭村 | 一等 | ||||||||
笠森村 | 一等 | ||||||||
高山村 | 一等 | ||||||||
深沢村 | 一等 | ||||||||
計一六ケ村 | |||||||||
右ハ当組郷村々山林原野地位等級比準協議仕候処書面之通相違無御座候ニ付此段上申仕候 |
(榎本川崎主計家蔵) |
山林原野地価積盛 1反当 | |
等級 | 地 価 |
1等 | 1円50銭 |
2等 | 1円20銭 |
3等 | 90銭 |
4等 | 60銭 |
5等 | 30銭 |
6等 | 20銭 |
7等 | 10銭 |
8等 | 5銭 |
山林原野及雑種地地価地租合計帳所載 (国府里区所蔵) |
山林原野雑種地地価 明治14年 | ||
総平均地価 | 1反ニ付 | 49銭8厘2毛 |
山林平均地価 | 〃 | 50銭3厘7毛5糸 |
野地平均地価 | 〃 | 20銭 |
藪地平均地価 | 〃 | 20銭 |
山林原野等の地価は安かったのであるが、丈量により反別は著しく増加し、千葉県全体では、五・七倍以上にふえた。国府里村の場合も、明治九年の書上げでは、山林四町三反三畝六歩であるのに、明治一四年の丈量で一二町一反一畝四歩と、三倍近くふえている。このことは、従来さしたる課税対象でなかった山林からの納税額が急激に増加したことを意味している。
地価は、その後改正されることもなかったので、資本主義の発達とともに相対的に低額地租となった。一方、小作料は現物納であったので、地主の収入は増し、政治活動にはいる余力が生じて来た。反面、農民の階層分化は再び進み、小作争議の温床が培われることとなった。