江戸時代の町村は、自然発生的集落を基礎として成立したもので、その規模はきわめて小さかった。初芝村、中之台村は一〇戸に満たなかったが、それでも独立した村としての機能をもっていた。中には、町村名はあっても全く住民のいない村もあったという。明治一九年の調査では、全国七一五七三か村のうち、一〇〇戸以下の町村数、四八四二〇で、全町村数の七〇%(29)を占める状態であった。従って、明治政府は廃藩置県前後から、町村財政強化のため弱小町村の合併を意図しはじめた。
千葉県においては、明治初年から町村の分合がさかんに行なわれた。明治元年、既に一松郷二二か村が合併して一松村が誕生している。二二か村のうち、入山津村が一宮藩領である外は、すべて旧代官支配所であり、合併の条件は江戸時代から熟していたものと考えられる。明治四年、曽根新田が曽根村、天子丸村が中之郷村(いずれも現長生村)と改称しているが、地積や戸口がふえたわけでない。明治九年に上吉井村、下吉井村が合併して、吉井村(現茂原市)に、明治一四年に一宮本郷村と新笈(あらおい)村が合併して、一宮本郷村となっているのは自然ななり行きであった。
『千葉県町村合併史』には、明治七年の針ケ谷村と初芝村の合併が落ちている。当時初芝村は高五〇石余、家数六軒で、戸籍事務や地租改正事業による事務量の増大に耐えられなくなったものと考えられるが、とに角、郷土における町村合併第一号であった。その後も、戸籍法による大区・小区の設定、連合町村による戸長役場の設置など、行政単位の大規模化を志向する動きはあるが、それはあくまで併合そのものではなかった。逆に政府は、明治八年から合併を抑止しはじめている。その真意はわからないが、共有財産の処理などで住民感情を刺激し、紛争の生ずることを恐れたものであろう。ちょうど、地租改正事業の進行に伴い、全国的に農民騒動の続発した時期であった。
本格的町村合併は、明治二一年(一八八八)四月に制定された市制及び町村制にはじまる。法のねらいは、地方の自治及び分権主義に耐え得る規模の町村の設置にあった。新町村設置要領では、独立自治の資力をもつこと、区域はなるべく戸長の管轄区ならびに学区と一致させること、用水路、悪水路、溜池等の水利施設共同利用関係の村々を含むことなどが強調されている。かくて、明治二二年の町村制施行前に、全国的規模においていっせいに町村合併が行なわれた。
新町村組織の過程において、長柄郡の自治区のうち合併にからんで紛議が生じたのは茂原村、日吉村、土睦村の三団体であった。土睦村の場合は、上之郷、下之郷、大谷木の三か村が他の八か村と分離独立しようとしたため紛議が生じた。これは、長期にわたる訴訟の結果下之郷村の占有となった草刈場の権利の消滅を恐れたためであるが、この三か村と境界が入り乱れている他の八か村の猛反対で、遂に一村合併となった。茂原村の場合は、日吉村と関係するので後述する。
次に、『千葉県町村合併史』から、上長柄、日吉、水上三か村の合併事情を拾ってみたい。