日吉村

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榎本・小榎本・徳増・長富・桜谷・鴇谷・針ケ谷・立鳥の八か村及び六地蔵村飛地を合併して日吉村が設置された。榎本・小榎本・徳増・桜谷・長富の五か村は、明治二一年一〇月一一日付けで、従来の共有財産を各旧村において所有することを条件として、本案に異議のない旨答申したが、同年一一月一四日に至り、更に箕輪村が参加を希望したので、県は、鴇谷・針ケ谷・立鳥の三村に対して、(一) 箕輪村は、この地区との間に入会地、共有財産、水利関係等において不可分の関係があるかどうか、(二) 県案の八か村のみをもって新村を組織したのでは、財政上自立の能力がないのかどうか、について諮問した。三村代表はこれに対し、(一) 不可分の関係はない。(二) 箕輪村を加えれば、それだけ財力が強化されるから、それを希望する旨の答申をした。しかし、茂原町外四か村においては、強硬に箕輪村がそのブロックから分離することに反対したので、原案のとおりの決定をみたもののようである。
 この間の事情を箕輪村から提出した陳情書でみると次のとおりである。
 (1) 箕輪村は、地勢山間に僻在して農業一方、人民の性愚直である。然るに茂原町村は商業専務の土地で人智やや進み、従って人民猾機(かつき)に傾き、本村と人情・気質を異にする。これに反し、針ケ谷村以下は本村とひとしく農業専務であり、人情もまた糾合する。
 (2) 茂原町村から箕輪村を分離すると、戸数・地価が不足するというが、茂原町村は戸数七九八戸、地価一二七、一六〇余円で、両郡(長柄・埴生)町村のうちで小さいとはいえない。一方、針ケ谷村以下は戸数四百有余戸、箕輪村を加えても五〇三戸に過ぎない。また、茂原町の飛地があり何かにつけ茂原町と密接な関係のある町保村・木崎村を加えず、関係少なく離れている本村を組入れようとする意図は了解に苦しむところである。
 (3) 県案によれば、中里村以下五か村は戸数七五四戸、地価六三、五九五円、また、牛込村以下五井村までは戸数六一〇戸、地価五八、〇一二円余りで一町村を組織させている。これらの地価や戸数から考えれば、本村が何れへ合併するも本村の希望に任せてよいものと思う。
 (4) 地形・沿革からみると、本村と地境を交え学区も同区である上埴生郡須田村の如きは、往古茂原村組合二五か村に属していたが、維新以来郡が異るとの理由で旧組合との関係を断った。また、須田村と八幡原村は密接不可分な関係にあるのに、一は岩川村へ編成し、一は綱島村へ編入した。これよりみれば、本村が針ケ谷村以下へ合併しても異議はないものと考える。
 (5) 本村は、維新前茂原村二五か村組合の一であり、茂原村は寄場親村(よせばおやむら)と称し間々冗費を課され、村民困苦の余り往々訴訟を起こしている。今は人智進み、法律もあってこれを検束するが、優勝劣敗の時勢であるから本村のような愚直な人民は、維新前の轍(てつ)を踏む恐れがある。殊に、一町村ともなれば、旧来の駅場費のようなものに止まらず、総ての理財を共にしなければならない。それこそ、本村が将来もっとも杞憂(きゆう)するところである。
 この陳情書は、理路整然としていて、しかも強硬なものである。箕輪村が一番恐れていたことは、商業中心の町村といっしょになり、純農村部の愚直な人民が不利にならぬか、といった点であった。このような杞憂(きゆう)は、茂原町村との合併を予定されていた内長谷村にもあり、この村は山崎村以下への合併希望を出した。続いて長谷村からも、内長谷村と同一歩調をとりたい旨の陳情がなされた。
 これに対し、茂原町・上茂原村・鷲巣村・高師村・上林村ブロックから猛烈な反対陳情があり、問題は紛糾をきわめた。しかし、県では、郡衙(が)の所在する茂原町村が狹小になることをおそれ、箕輪村・内長谷村に異議があるにもかかわらずこれを茂原町村ブロックに加えた。
 箕輪村の編入を針ケ谷村以下が強く望んだわけでない。しかし、窮鳥懐に入るの例え、これを迎え入れる態勢にあったが、県の裁定で果たさなかった。
 針ケ谷村以下八か村は、古来長柄郡に属し、往時刑部郷の地であったと伝えられている。明治六年大小区分画の際第七大区三小区に編入され、九年に第七大区一二小区となった。一一年郡区町村編成法施行の際、榎本・小榎本二か村、徳増・長富・桜谷の三か村、鴇谷・立鳥・針ケ谷の三か村がそれぞれ村連合を組成し、一七年戸長役場所轄区域更定に際しては、榎本・小榎本・徳増・長富・桜谷は箕輪村・長谷村・内長谷村・鷲巣村・上茂原村の五か村と連合し、鴇谷・針ケ谷・立鳥の三か村は刑部・田代・金谷の三か村と組合って同一戸長役場の所轄に属し明治二二年に及んだ。
 このように、戸長役場の所轄区域が二つに分かれ、学区も戸長役場所轄区域と同じで二分されていたが、農業地域で人情・風俗・生活程度も類似し、且、水利施設も共有したので、合併に適当な条件を備えていた。新村名は協議により日吉村と定められた。合併時における新村の村勢は別表のとおりである。
    項目
旧村名   
人口
(人)
戸数
(戸)
面積
(町)
国税
(円)
地方税
(円)
町村費
(円)
町村協
議会費
(円)
榎本村3005283.28476124892
小榎本村942133.4024060404
徳増村3547089.431,7261491132
長富村1112331.5525963449
桜谷村27456120.5957071002
鴇谷村504108190.108922311227
針ケ谷村44284199.918792101105
立鳥村27156103.44555141725
六地蔵村飛地0.822
2,350470852.525,5991,11569036
明治22年 日吉村誕生当時の村勢 千葉県町村合併史による