笠森・深沢・大庭・高山・大津倉の五か村及び所轄区長から、本案に異議のない旨答申があったのが明治二一年一〇月九日、田代・刑部・金谷の三か村及びこの三村と同一戸長役場に属していた村々並びに所轄戸長から、従来の共有財産は旧来どおり各旧村において所有することを条件に、本案に異議ない旨答申したのが同月一〇日であった。
この地方は、古来長柄郡に属し、往時刑部郷の地であったと伝えられる。明治六年大小区分画の際第七大区三小区に編入、九年同大区一二小区に編入替、一一年郡区町村編成法施行の際笠森・深沢・高山・大庭・大津倉の諸村と田代・刑部・金谷の諸村は、それぞれ村連合を組成し、深沢・笠森・高山・大庭・大津倉の五か村は、同一戸長役場に属し、田代・刑部・金谷の三か村は立鳥・鴇谷・針ケ谷の三か村とともに同一戸長役場の所轄に属し明治二一年に及んだ。
関係諸村は、右のように、二つの戸長役場に属し、二つの学区に分れていたが、(笠森・深沢・大庭・高山・大津倉で一学区、刑部・田代・金谷・針ケ谷・立鳥・鴇谷で一学区)何れも農業を主とし、人情・風俗・生活程度等を同じくし、且用水路・悪水路・溜池等の水利施設を共用する事情にあり、合併に適当な状態にあった。
新村名は、地域が一宮川の水源地に当たるという地理的位置にちなんで水上村と決定した。合併時における新村の村勢は別表のとおりである。
項目 旧村名 | 人口 (人) | 戸数 (戸) | 面積 (町) | 国税 (円) | 地方税 (円) | 町村費 (円) | 町村協 議会費 (円) |
笠森村 | 224 | 37 | 83.62 | 228 | 81 | 39 | 5 |
深沢村 | 144 | 24 | 93.37 | 274 | 68 | 38 | 6 |
大庭村 | 318 | 48 | 124.67 | 461 | 120 | 66 | 10 |
高山村 | 255 | 46 | 93.69 | 466 | 115 | 65 | 11 |
大津倉村 | 381 | 67 | 129.72 | 627 | 158 | 91 | 14 |
田代村 | 142 | 25 | 61.50 | 200 | 48 | 27 | 11 |
刑部村 | 998 | 187 | 310.19 | 1,915 | 396 | 208 | 14 |
金谷村 | 206 | 32 | 62.86 | 405 | 96 | 48 | 8 |
計 | 2,668 | 466 | 959.62 | 4,576 | 1,082 | 582 | 79 |
明治22年 水上村誕生当時の村勢 千葉県町村合併史による |
明治二三年(一八九〇)五月、府県制・郡制が制定された。府や県は、明治になってからの行政区画で、府県会規則や地方税規則により漸次地方自治体としての性格を備えて来たが、府県制の制定により地方自治体として明確に位置づけられた。
郡の区画は古くからあったが、江戸時代においては地理的位置を示すだけで、行政単位としては何等認められていない。明治一一年の郡区町村編成法により、郡は郡長の支配する区域となったが、それは行政区画であり、自治体ではなかった。郡制は、これを自治体にしようとするものである。ところが、当時の郡は小郡が多く、地域も錯雑していて、そのまゝでは郡制をしくことが困難であった。そこで、独立自治の能力のない小郡の合併、民情や地形の関係で一体となれない郡の分割が行なわれた。明治二三年より、長期にわたり曲折はあったが、遂に、明治二九年(一八九六)三月二九日、郡の統廃合が決定し、長柄郡と上埴生郡は合併して長生郡が誕生した。郡制は、翌明治三〇年四月一日に施行され、郡長が任命され、議決機関として郡会が構成された。同年一〇月一日、府県制も施行され、県の自治体制が強化された。
県下の郡の統合状況は次のとおりである。
新 郡 | 旧 郡 |
東葛飾郡 | 東葛飾郡 南相馬郡 |
印旛郡 | 印旛郡 下埴生郡 |
長生郡 | 長柄郡 上埴生郡 |
山武郡 | 山辺郡 武射郡 |
君津郡 | 望陀郡 周准郡 天羽郡 |
安房郡 | 安房郡 平郡 朝夷郡 |
千葉郡 | 千葉郡 |
市原郡 | 市原郡 |
海上郡 | 海上郡 |
香取郡 | 香取郡 |
匝瑳郡 | 匝瑳郡 |
夷隅郡 | 夷隅郡 |
明治二九年以来親しまれてきた県下一二郡も、昭和四二年一月一日、八千代市が誕生して千葉郡が、また、同年一〇月一日、南総町と加茂村が市原市に合併して市原郡が消滅し、現在は一〇郡となった。
明治三〇年に施行された府県制は、同三二年、大正三年、同一一年と改正され、府県の自治体としての機能は一層強められたが、郡制は、県と町村の中間にあって事業内容も明確でなく、財政的基礎も浅く、大正一二年(一九二三)廃止された。しかし、行政区画としての郡が消えたわけでなく、県の出先機関としての郡長及び郡役所は存続したが、これも大正一五年に廃止となった。
郡制の廃止により、郡の行政内容は県と町村に分けられたので、町村の事業はふえ、自治体としての行政分野は一層広まった。
大正期に入ると、いわゆる大正デモクラシーを謳歌するのであるが、その陰には、深刻な不景気がしのびよっていた。昭和二年の金融恐慌のころから、中国大陸での陸軍の動きが活発となり、急速に軍国主義化していく。昭和一六年(一九四一)太平洋戦争へ突入すると、戦時体制下の町村行政業務は、膨張の一路をたどる。それは、住民福祉とは無関係な、国家の下請業務が多かったが、内容は別として、町村の行政機構は充実した。
昭和二〇年八月一五日ポツダム宣言受諾、敗戦を境として日本の国情は大きく変った。農村に最も大きな変化をもたらしたものは農地改革である。以後、郷土の世相は一変とする。
昭和二二年五月三日新憲法発布、同時に新自治法も施行され、地方自治体の首長が、公選されることとなった。公選初代の村長は、長柄村山田正、日吉村宍倉大次郎、水上村池座久二であった。
旧水上村役場
旧長柄村役場
公選村長の下、各村の産業や福祉は漸次発展するのであるが、アメリカ占領軍の性急な改革勧奨のため、村財政は窮迫した。昭和二二年四月一日新しい学校教育法の施行により、いわゆる六・三制が発足し、各村あるいは村組合において新制中学校を設置した。その新校舎建築は、当時の村財政からみると相当重い負担であったが、三村とも単独でこれを為し遂げた。昭和二三年一〇月一日からは、町村ごとの教育委員会も発足した。
産業面では、昭和二五年から保温折衷苗代による水稲早期栽培が奨励され、千葉県下にも急速に広まり昭和三〇年ころからパラチオン剤等の農薬使用と相まって、米の収穫は急激にふえた。
郷土の本格的発展は、昭和三〇年四月二九日、長柄村・日吉村・水上村が合併して長柄町が誕生してからである。その詳細は続篇に譲り、次に旧村の歴代村長を列挙し、その功績をたたえる。