一 上長柄村・日吉村・水上村の発足 1  Establishment of the villages of Kaminagara, Hiyoshi, and Mizukami

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 明治二一年(一八八八)四月二五日、市制・町村制が公布され、続いて町村合併を推進するための内務大臣訓令が発せられた。旧来の村は、郷土で最大の刑部村でさえも、戸数一九七、人口一、〇九四人、中之台村に至っては、戸数八、人口三四人(『上総国町村誌』)という有様で、とても地方自治体として一本立ちできる規模ではなかった。そこで、明治二二年四月一日の市制・町村制施行を目途に、全国的に町村合併が進められ、郷土では、上長柄村・日吉村・水上村が誕生した。(『長柄町史本編』六七八P参照)数百年来親しまれて来た町村名が大字(あざ)となり、新しい町村が生れたのであるから、昭和三〇年の町村合併より遙かに大きな変革であった。
 長柄郡では、一二六町村が二町一八村に、上埴生(かみはぶ)郡では、四四町村が六村に統合された。市制も同時に施行されたのであるが、千葉県では市制を布く程の規模をもった町村がなく、初めての市制都市として千葉市が誕生したのは、かなり遅れて大正一〇年(一九二一)になってからである。県庁所在地が長期間町であったという例は少ない。また、市制施行当時の千葉市人口が三万三、八八七人であったというから、かつての袋小路千葉県の後進性をまざまざと見せつけられるものである。
 町村制により自治体としての性格と体裁が整ったとはいえ、町村長は、原則として名誉職であり、(町村議会の議決により、給料を支給し得る余地は残してあった)公民として町村の選挙に参与できる者は、公権を有する独立の男子で、地租納税者または直接国税二円以上を納める者に限られていた。なお、明治二二年の法律三号による衆議院議員の被選挙資格は、年齢満二五年以上の日本臣民である男子で、直税国税一五円以上を納める者に限られ、その数は、全人口の一・一%に過ぎなかった。
 町村長は、町村議会で選挙され、府県知事の認可を受ける。町村事務は町村長が統轄するが、町村固有の事務の外、県や郡から委任された事務も執行し、その費用は町村負担とされた。町村行政を監督するのは、第一次郡長、第二次府県知事、第三次内務大臣であった。郷土三村の初代村長は、上長柄村・林太郎吉(千代丸)日吉村・阿部多重郎(桜谷)水上村・平野弥惣治(金谷)であった。