二 日清戦争・日露戦争 2 The Sino-Japanese & Russo-Japanese Wars

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 明治六年(一八七三)一月一〇日、徴兵令布告と同時に、佐倉には、東京鎮台第二師管の本営が置かれ、さらに五月には、近衛歩兵師団第二連隊本部として第一大隊が駐屯することとなった。この時、一〇月から一一月にかけて、地元から一個大隊の新兵を徴集している。明治九年(一八七六)、旧佐倉城内に一個連隊収容の兵舎が完成し、宇都宮と東京に分屯していた第二大隊と第三大隊も佐倉に移り、佐倉連隊の基礎ができた。明治一〇年(一八七七)の西南の役には、佐倉連隊も出動し、針ケ谷東部出身の陸軍一等兵卒小倉蔵太郎が戦死した。郷土における平民出身者の戦死第一号である。鎮台兵は、ほとんど農民出身者であったので、これが薩摩士族を打ち破ったことにより、士族の特権意識は粉砕された。
 明治二一年(一八八八)、鎮台組織は廃され、師団組織となり、佐倉連隊は第一師団に属した。
 

歩兵第57連隊(佐倉)正門

 明治二七年(一八九四)朝鮮半島の支配権をめぐって、日本は清国と開戦した。第一軍は、清軍を撃破しながら北上し、一〇月二五日までに鴨緑江(おうりょくこう)を越えて清国領土に進出した。
 佐倉連隊は第二軍に属し、一〇月二四日遼東半島に上陸、金州・旅順・太平山・田庄台等で戦闘に参加した。郷土からの出征人員は不明であるが、筆者の祖父(大野辰蔵)も現役で日清戦争、召集で日露戦争に参加し、従軍の章という札が最近まで門口に打ちつけてあったが、家屋改築のため散失した。「遼東半島に敵前上陸というが、ズボンをぬぎ、銃と一緒に頭に載せ、遠浅さの海をじゃぶじゃぶ歩いて行った。遠くで、清兵らしいのが逃げ行くのが見えた。」と祖父は生前に語っていた。
 
  日清戦争による長柄町出身者の戦死および戦病死は、合わせて四名である。陸軍一等兵卒高吉徳蔵(国府里)旅順で戦病死、同一等卒斉藤芳松(大津倉)金州で戦病死、同上等兵三橋鶴太郎(大庭)太平山で戦死、荒井治郎三郎(高山)階級、戦死場所不明
 

凱旋御礼として奉納せられた絵馬(大庭・熊野神社)

 この戦いにより、清国は眠れる獅子でなく、死せる獅子であることを露呈した。小国日本に苦もなく敗れたのを見て、欧米列強は、競って中国大陸に利権を求めはじめた。日清の戦いは、明らかに、日本の帝国主義的侵略戦争ではなかった。弱小国が強大国に戦いを挑むとは、帝国主義の意義に合わない。しかし、それ以後の日本の中国進出は性格が一変してくる。何より悲しむべきことは、この戦いを境に、中国蔑視(べっし)の風潮が日本人に醸成されたことである。
 明治二八年(一八九五)四月一八日、遼東半島と台湾を日本に割譲する下関条約が成立した。しかし、直ちに露・仏・独の、いわゆる三国干渉が始まり、翌五月一三日、遼東半島は清国へ返還された。
 この干渉は、清国に同情してのものでなく、日本の大陸進出を抑え、清国に自らの利権を確保するためのものであった。先ずドイツが膠州湾を占領し、明治三一年(一八九八)一月末、九九年間の租借権を獲得した。ロシア艦隊も、日本から返還させた旅順に居すわり、清国保護を名目として、三一年三月、遼東半島の二五年租借と長春、旅順間の鉄道敷設権を得た。イギリスは威海衛を、フランスは広州湾の租借権をもぎ取った。
 遼東半島に拠点を持ち、続々と軍隊を派遣して、権益を満州全域に広めようとしているロシアとの戦いは不可避となった。満州原野における戦争を想定して、日本は軍備の拡充に努めた。
 明治三二年(一八九九)、市川町国府台に野砲兵第一六連隊が、津田沼村に騎兵第一三連隊から一六連隊までの四個連隊が置かれた。国府台には、その後、野戦重砲兵第三旅団司令部が置かれ、第一連隊と第七連隊が配置された。津田沼にも騎兵第一旅団司令部が移って来た。更に津田沼には鉄道第二連隊が置かれた。野戦重砲兵・騎兵・鉄道兵等の養成は、明らかに、大平原における戦闘準備である。以後、房総の地は軍都と化していく。
 一方、外交的には、日英攻守同盟が明治三五年(一九〇二)一月三〇日に締結された。ロシアの勢力拡大を最も恐れていたのはイギリスであった。日露開戦の方向へ、大勢は急速にのめり込んで行った。青森の歩兵第二大隊の将兵一九九人が、雪の八甲田山へ演習出動し遭難したのもこの年であり、それは、酷寒の満州作戦の準備であったと推測される。明治三六年(一九〇三)、ロシア軍が朝鮮に向けて南下の形勢にある、として、東京帝国大学の学者グループが対露強硬策を内閣に申し入れたのは、国論の統一を図るためであった。最も慎重派であった元老伊藤博文も遂に開戦を決意し、三七年二月四日の御前会議において開戦と決定した。伊藤は、金子堅太郎をアメリカ合衆国へ送り、米国の援助を得るための工作に当たらせた。
 明治三七年(一九〇四)二月六日、日・露国交断絶、第一軍は仁川に上陸して朝鮮半島を北上、第二軍は遼東半島に上陸、続いて編成されたのが第三軍である。郷土の佐倉連隊は三軍に属し、旅順要塞に立ち向った。また国府台の野砲兵第一六連隊も、緒戦から旅順攻撃に加わった。両連隊とも、旅順陥落後奉天の大会戦に参加している。
 日露戦争の戦死者は、日清戦争のときより遙かに多い。本町出身者の戦死または戦病死の数も一六名にあがる。(氏名は、『長柄町史』五九二ページ参照)死亡場所は、旅順や金州、南山等もあるが、奉天付近が圧倒的に多い。このことは、奉天の大会戦がいかに凄まじいものであったかを物語る。戦史を見ても、会戦した日本軍二五万、露軍三五万、両軍とも一〇万を越える死傷者を出している。
 
  第三軍司令官乃木希典筆の金石文は、極めて少ないのであるが、日吉の忠魂碑は乃木大将の筆になるものである。部下から多勢の戦死者を出したので、書いてくれたと伝えられている。ちなみに大野善八筆「記録簿」によれば石工の堀り賃三字二十一円、石代共に三百三十円(小碑二箇と合せて)であり、明治四十三年三月二十五日に建碑式を行った。
 

日吉小学校前乃木希典筆表忠碑

 明治三八年(一九〇五)三月一〇日、日本軍は奉天を占領した。この間、バルチック艦隊は回航に手間取り、ベトナムのカムラン湾で炭水を補給し、北上を開始したのは五月中旬となった。五月二七日、哨艦信濃丸がこれを発見、同日午後、対島海峡沖の島北方でこれを撃滅し、日露戦争の勝利を決定的なものにした。講和は、外交交渉が成功し、アメリカ大統領ルーズベルトのあっ旋により成立した。
 日露戦争は、日本にとっては一種のカケであったが運よく勝利を収め、日本の国際的地位は高まった。反面、列強に伍して帝国主義侵略が拡大し、アジアにおいて悪名を残す出発点ともなった。一方のロシアも、国内に革命が起こり、帝制がゆらいで、後ソビエット社会主義共和国連邦誕生の基点となった。