三 稲作三要項 3 Three essentials for rice cultivation

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 わが国の工業は、官営の製糸・紡績工場を手本に、先ず、軽工業部門から徐々に生産を高めて来たが、日清日露の戦争をバネとして、重工業部門も飛躍的な発展を遂げた。鉱山の経営・兵器・火薬・造船などの軍事工場が中心であったが、日清戦争で清から得た賠償金をもとにした八幡製鉄所が、明治三四年(一九〇一)から操業を始めると、鉄を基礎として造船・車両・機械などの工業が発達する。
 しかし、工業の発達は、郷土には無関係であった。ここは、江戸時代と同じく稲作中心の農村であった。
 役場に残された資料には、米の増収のための施策と指導、果ては奨励を通り越した威嚇的文書まで見られる。明治二〇年代後半から、稲作技術改善のため、国や県は稲作三要項なるものを示し奨励した。以後明治期は、稲作三要項に明け暮れた感さえある。あちこちに、稲作改良励行組合も結成された。三要項とは、先ず第一に種籾の塩水撰の奨励である。塩を融かして比重を高めた塩水に種籾をつける。未熟な軽い籾は浮くので取り除く。つまり、充実した良質の種籾だけを選ぶ方法で、昭和二〇年頃まで行なわれていた。第二が短冊型苗代の奨励である。幅四尺、長さは適誼の長方形の苗床をつくり、これに播種する。短冊と短冊の間は溝状にし、人が通れるようにした。従来の苗代は、水がかりの良い苗代専用田に種籾をバラ蒔きしていた。その為雑草が混じり病気に罹り易かった。勿論、中へ入って手入れもできなかった。短冊型になってからは、どこへでも手が届き、雑草や稗を取り除き、螟虫卵のついた葉を摘み取ることもできた。水をきって根本まで太陽に当て、丈夫な苗を育てることも、追肥を施すことも可能になった。第三が改良植えと言われるもので、正整形に苗を植えた。いわゆる縄張り植えである。除草も容易で風通しも良く、分蘖(ぶんけつ)を促し、且刈り取りも容易となった。
 これらの方法が簡単に普及したかといえば、そうでもない。一般化したのは明治の末年である。これらの方法は、先進地域では江戸期から実施していたところもある、というから、農業の面でも千葉県は後進地域であった。
 病虫害の予防、殊に病害に対しては、完全に無力であった。虫害では、ズイムシの被害が恒常的であったので、螟虫卵の駆除は大いに励行された。学童による螟卵採(めいらんと)りは明治期から行なわれ、昭和二〇年以前に小学校生活をした者には、誰しも思い出があると思う。螟卵のついた葉を入れる袋と、長さ一メートル程の竹棒と弁当を持って、教師に引率されて苗代に出かける。竹棒で苗の頭を軽くなでると、チラリと螟卵のついた葉が見える。これを摘んで袋に入れる。採った螟卵はまとめて焼き捨てる。ちょうど木苺(きいちご)が黄色く熟する時季で、昼休みはこれを頬張り、甘い露を堪能(たんのう)したものである。人海戦術とはいえ効果は大きかった。
 また、米の品質向上のために奨励されたのが稲の架乾法である。従来は、刈り取った稲を大束にたばね、数たばを寄り添わして田圃に立てておいた。これでは乾燥が不揃いになるだけでなく、雨が続くと米質が落ちる。そこで、現在も部分的に行なわれている「オダガケ」が奨励された。これとても、手間をくうだけでなく、大量の竹が必要なため、竹藪を持たない者には困難で容易に普及しなかった。県は、恫喝(どうかつ)的にこれを奨励し、明治末年には一般化した。郷土史料としては、明治二二年(一八八九)頃より、稲作改良実行組合が結成され、稲作三要項の実施に着手したこと、明治二八年(一八九五)上野で、横山次郎作指導により架乾法が実行されたことなどが残されている。(委細農業の項参照)