四 明治の終焉 4 The end of the Meiji Era

9 ~ 13 / 756ページ
 明治四五年(一九一二)七月三〇日明治天皇崩御(ほうぎょ)、日本史に一時代を画した明治時代は終った。この時代は、中央集権的近代国家の形成過程であるとともに、地方自治権成立の時代でもあった。文明開化と称して西洋文明の導入に熱心な反面、封建的遺風も牢固として残された。専制政府の弾圧にもめげず、政党政治も徐々に発達した。労働運動や社会主義運動に対する大弾圧の反面、工場法により労働者の保護も進められた。二度の戦争により軍国主義化が著しく、北総台地は軍事施設に覆われたが、文芸の華も咲いた。明治期には、文豪と称せられる作家が輩出したが、今日、その名に値する作家は少くない。逼迫した財政であったが、教育の普及充実には目を見張るものがあった。
 明治二二年に発足した上長柄村・日吉村・水上村は、自治体として着々整備されていったが、その実態を明らかにできる資料は意外と乏しい。全般的に、中央の文化や産業革命の影響は極めて少なかったように思える。自由民権運動の影響はあったと思う。この地で運動が盛り上った形跡はまだ資料が発見せられていないが、当時農閑期などは夜間を利用して青年たちが集まって盛んに自由民権を論じており、警察の取り締まりがあるとくもの子の散らすが如くに四散したという伝承がある。(鴇谷・明治二〇年ころ)
 明治三〇年(一八九七)郡制施行とともに、長柄郡と上埴生郡が合併して長生郡となった。この年、上長柄村は長柄村と改めた。同年、長南叺莚(かますむしろ)合資会社(明治三九年関東叺莚株式会社となる)が設立されている。叺莚の生産が農村副業の主力となり、どの農家でも「ハタシ」の音が響き、老人子供まで縄ないに励んだ。長南が製品の大集散地となり、昭和二〇年頃まで続くのである。
 明治三一年(一八九八)千葉県農工銀行(昭和二年日本勧業銀行と合併)が設立された。商業金融機関に比して著しく立ち遅れていた農工業への金融をねらいとして、法律により各県一行の建前で設立されたものである。このようなすう勢に刺激されて,明治三三年(一九〇〇)には日吉銀行や水上農商銀行がつくられた。これらの小規模銀行は泡(あわ)のように消えて行くのであるが、農村といえども資金を借りて事業をなす時代となってきたのである。しかし銀行は農村地帯では成り立たず、農民の借金先は依然として地主であり、耕地の大地主への集中は止まらなかった。
 明治初期の地租改正により、地租は金で納められるようになったが‘小作料は依然として収穫米の半分ほどを現物で納めたので、小作農は貧困にあえいだ。一方、毎年のように米価が値上りしたので、地主は大きな利益を得た。農村の貧富の差は拡大し、階級分化は一層進み、地主と小作人との間には、封建的関係が長く続くこととなった。
 明治三二年千葉簡易農学校が茂原町野巻戸(のまきど)に移り、同三四年(一九〇一)には県立茂原農学校となり、以後長く幾多の人材を輩出させる。全国的にみても古い伝統のある農業学校として、その卒業生は農業経営者として、農業関係諸機関の職員としての活躍にとどまらず、広く政界にまで隠然たる人脈を築き上げた。今でも、全国農業高等学校長協会の幹部に茂原農業高等学校長がすわるしきたりになっている程である。この年、私立大成館中学校(県立長生高等学校の前身)も設立され、向学心に燃える青少年の学ぶ場には事欠かなくなった。しかし、経済的に進学できる青少年は極めて少数であった。当時の通学は、下駄履き徒歩であったから、上茂原その他に下駄の歯入(はいれ)屋があり、歯がへると入れ替えた。道路は閑散としていたので、歩きながらの読書も可能であった。往復四時間ないし五時間の通学時間は無駄にできなかったのである。明治終期から大正期にかけて、自転車通学者も現れたが、道路で遊んでいた鶏が、見馴れぬ乗物にびっくりして、あわてて駆け回り、却ってスポークに首を突込んだ、という笑い話しを古老から聞いたことがある。貨物の輸送は専ら荷馬車で、これは昭和初期まで続いた。
 

私立大成館校舎

 新興国の気慨に燃え、殖産興業・富国強兵のスローガンにより突進してきた日本も、明治終期ともなると、いろいろな矛盾をふき出してきた。日露戦争に勝って目標を失った国民は、後に残された生活の貧しさを見つめるようになった。
 明治四二年(一九〇九)二月足尾銅山で大暴動が起った。坑夫が古河鉱業の役員と衝突、焼打ち事件に発展、軍隊の出動により収った。続いて六月、別子銅山においても大暴動発生、演習名目により軍隊が出動して鎮圧された。何れも低賃金と苛酷な労働条件の改善を要求したものであるが、組織的に未成熟な労働者の行動は過激に走り、経営者の鉱山労働者に対する感覚はタコ部屋的なものであったので、たちまち暴動という形になってしまった。この前後には、鉱山だけでなく、東京石川島造船所・呉海軍工廠・大阪砲兵工廠・長崎の三菱造船所・横須賀海軍工廠等でも労働争議あるいは暴動に近いものが続発している。
 日清戦争前後の産業革命により農村の生活も大きく変った。莚敷(むしろじ)きの座敷が畳敷きとなり、急須(きゅうす)でお茶も飲むようになった。ランプも普及した。しかし、農業収入はそう増えるものでないから、大多数の農民は慢性的金欠状態に陥った。稲作の技術改良・耕地整理・品種や肥料の改良により、米の生産はふえたが追いつくものでなかった。生糸(きいと)の輸出が好調で養蚕も全国的に広まったが、仲買人や資本家を利するだけであった。蚕のマユは、生のままでは長期保存ができない。自ら繭(まゆ)を乾燥し貯蔵することの困難な農民は、十日以内に販売しなければならなかったため、仲買人に常に買い叩かれる立場にあった。
 地主と小作農の関係も悪化してきた。小作農は明治一六年頃は全農家の一九・二%ほどであったが、明治四一年には二七・六%とふえている。世界に類例を見ない現物納による高額地代を納めきれない小作農がふえてきた。養蚕をするにしても、畑をもたない小作農は、桑を植える畑も借りなければならない。繭を売った代金は、水田小作料未納分の穴埋めと、桑畑の小作料で消えてしまう、という悪循環を繰り返し、各地で小作料の減額を訴える小作農と地主の間に争議が発生するに至った。都市では工業が順調に発展していたので、農民の都市志向がおこり、安い賃金と長時間労働であるものの、確実に賃金の入る都市への人口流入が始ったのも明治末期からである。
 明治四三年(一九一〇)天皇暗殺を企画したという大逆事件が起き、翌年幸徳秋水ら一二名の社会主義者が死刑となった。この事件の真相は不明であるが、当時の社会主義勢力は、とても政権を奪う程のものでなく、天皇暗殺を企てるなど思いも及ばぬことで、社会主義を双葉のうちに摘んでしまおうとする謀略のように思える。暗い時代の始まりであった。この年。韓国併合も行なわれた。
 明治四三年は、千葉県農民にとっても不吉な年であった。八月上旬から雨が降り続き、稲は水腐れし、冷害も伴って大凶作となった。被害面積一万八、四五〇ヘクタール、一〇アール当たり収穫一八九キログラムという不作は以後の記録にない。八月九日大暴風雨に襲われ江戸川・利根川は大洪水で、農家以外も大被害を受けた。漁民にとっても悪い年であった。銚子沖で大暴風に見舞われ、漁船八十余隻が遭難し、多くの死亡者を出した。
 台湾樺太を領有し、遼東半島から満州鉄道にかけて権益を確保し、朝鮮を合併し、条約改正も成った日本であるが、世界の五大国に列して貧しさのみ残るという状態で、わが房総にも膨大な軍事拠点が残されただけである。
 明治四五年(一九一二)七月三〇日、明治天皇の薨去とともに明治は終わる。陸軍大将乃木希典と夫人静子の殉死は、まさに明治の終焉を象徴する事件であった。