五 第一次世界大戦 5 World War I

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 明治維新のころから、世界はヨーロッパの列強、特にイギリス・フランス・オランダ等によりほとんど分割されていた。東南アジアだけを見ても、仏領インドシナ(現ベトナム・カンボジァ・ラオス)蘭領東インド(現インドネシア)あるいは英領マレーとか英領ボルネオと呼ばれていた。イギリスは、大英帝国に日の没するときがない、と豪語し、世界に君臨していた。新興国アメリカ合衆国でさえも明治三一年(一八九八)米西戦争によりスペインの植民地であったフィリッピンを領有するに至った。
 一方ドイツは、国内の統一が著しく遅れ、植民地獲得競争の圏外にあったが、新興国プロシアの首相ビスマルクが富国強兵策を進め、工業を発達させ、軍備を整え、明治四年(一八七一)にドイツ帝国をつくった。以後、貿易や植民地獲得をめぐってイギリスと鋭く対立するようになった。しかし、世界の後進地域は、ほとんど植民地化あるいは属国化していたので、ドイツは、バルカン半島から西南アジアに勢力をのばそうとした。明治一五年(一八八二)同じような立場にあるオーストリア・イタリアと三国同盟を結ぶ。これに対抗してロシアは、フランスと露仏同盟を結び、ドイツの進出を阻止しようとした。イギリスは、ドイツの拡大もさることながら、当面、ロシアの南下政策をより警戒し、明治三五年(一九〇二)日英同盟を結んでロシアの東アジア進出に備えたが、日露戦争でロシアが敗れると、一転明治四〇年ロシアと協商を結び、ドイツの西南アジア進出に備えた。このように、イギリス・フランス・ロシアでドイツを包囲する形となり、双方とも軍備拡張に狂奔した。
 大正三年(一九一四)六月二八日、オーストリアの皇太子が、バルカン半島のセルビアの一青年により暗殺されると、オーストリアはセルビアに宣戦し、これを発火点として四年半にわたる大戦に突入した。
 日本は、日英同盟により連合国側に立って参戦した。本国との連絡を断たれたドイツの租借地青島(ちんたお)の攻略や、ドイツ領南洋群島(マーシャル・マリアナ・カロリンの諸島)の占領は容易であったが、それでも桜谷出身の海軍二等機関兵阿部嘉英が膠州湾で戦死している。
 

阿部機関兵の碑

 この戦いは、途中国内に革命の起こったロシアが脱落したが、新たにアメリカ合衆国が参戦し、連合国側の勝利に終った。しかし、毒ガス・戦車・飛行機などの新兵器を繰り出しての激戦であったため、三千万人にも及ぶ死傷者を出すという悲惨なものとなった。
 ただし、日本は漁夫の利を占めた。被害をほとんど受けずにアジアの市場を独占し、中国大陸へ進出するチャンスをつかんだ。武器弾薬はもちろん、あらゆる物資が、生産が追いつかぬ程に売れた。日露戦争後の慢性的不況に悩んでいたわが国は、一挙に好況を取り戻し、成金も続出した。将棋では、歩(ふ)が敵陣に入ると一躍金(きん)になる。成金とは、日露戦争による一獲千金者に与えられた新語であるが、第一次大戦の成金は、主として鉱山や船あるいは貿易関係者を中心に数多く生れた。
 大戦による好況を反映して、物価の上昇はすさまじかったが、労働者の賃金は僅かしか上らなかった。成金と貧しい大衆との分極化により、労働争議が多発するようになる。
 
実質賃金の変化
年 次物 価
(A)
賃 金
(B)
実質賃金
(A/B)
大正3年
(1914)
100100100
大正4年10310097
大正5年14410794
大正6年17912771
大正7年23015768
数字は指数(東京書籍版中学生社会科教科書より)