米価騰貴の原因は、在庫米の減少にある。大戦中の好況により都市人口がふえた。洒造米の消費量も増加した。農村でも麦・ひえに代って米を多く食べるようになった。大正六・七年の内地米は、やや減収であった。大戦関係で船が忙しく、外米の輸入が減った。加うるに、米穀投機が活発で、米価騰貴が見込まれると売惜しみや買占めに走る者も現れ、暴騰に拍車をかけた。
地方相場の動きを、道脇寺大和久忠作の「米穀売払簿(うりはらいぼ)」でみると、中央の動きをそのまま反映していることがわかる(表Ⅰ)。米の品質表示が白紙・紫紙・茶紙・青紙に分かれ、更に無印米もあって値段が異なり、また、米商人だけでなく、消費者に直接売る場合もあり、代金の支払いが遅れて若干高値になることもあって、平均価格は精密に出ない。時々付記してある相場は一駄の値段である。輸送機関の発達しない時代は、馬の背に二俵くくり付けて米を運んだ。その名残りか、相場も一駄(二俵=八斗)で表示した方がわかり易かったのであろう。大和久家の場合は、総て門口売りで、買手が運びに来ている。
米穀売払簿
大和久家の米穀売払帳により、大正七年(一九一八)の一俵の値段を、月別に出してみた(表3)。等別により値段がちがうので平均を求め、円以下は四捨五入した。表示していない月は、米売払いのなかった月である。三月に一俵九円であった米価は、徐々に上昇し、七月には一一円となり、八月には一六円に達している。八月の急騰は中央市場と軌を同じくしているが、一〇月の高値は地方相場に影響していない。出来秋で、地方では新米の流通が始まり、品不足ということがなかったのであろう。
都会では、一升二〇銭前後の白米が、三〇銭となり四〇銭となり、大正七年八月には五〇銭に達した。当時の巡査の月給が、五円から一六円、小学校正教員の月給が一八円から二五円ていどであったというから、この米価では、とても生活できるものでない。月二斗の消費とすると、米代だけで一〇円となり、月給の半分がとんでしまう。このような状勢下に米騒動は勃発した。
騒動の発端は富山県である。二月二二日の夜、下新川郡魚津町の漁民の妻女たちが、天井知らずの米価騰貴で生活が成り立たないと話し合い、翌二三日に、町役場や資産家に救済を訴えたことにはじまる。当時の富山の漁民の収入は一日五〇銭ていどで、主婦たちは副業として米の船積みの下働きをし、一〇銭から二〇銭の賃銭を得ていた。この騒ぎは、たちまち四隣の漁村に広がり、遂に千余名の集団となり、米商人や資産家へ押しかけ、米の廉売を哀願した。当時の新聞は、この事件を「越中女一揆」として報道し、騒動は名古屋・京都をはじめ、全国に波及した。約五〇日間に及ぶ騒動は、三八市一五三町七八村に発生し、参加人員は百万を越えたといわれる。米屋や派出所が襲撃されるような事態も起こり、軍隊も出動して鎮圧に当たった。
千葉県では、米不足の恐れはなかったが、商人の買占めや売惜しみに頭を悩ました。県当局の対策は速く、月給三〇円以下の薄給者に白米の割引購買券を交付し、また、三井物産から外米を買って、一升一五銭で、県下各地で廉売の処置もとった。この年、細民(さいみん)救済(当時の新聞に使われていたことば)のため、皇室内帑(ないど)金六万七千円が千葉県に交付されている。米騒動が比較的軽微であった背景は、他県に比べ県民の生活が安定していたためである。県警察部の調査によると、長生郡の情況は次のようなものであった。
「蔬菜類の多産地なるにより、昨今細民といえども手間取りその他収入多く、日雇は普通が日六〇銭ないし八〇銭にして、農家は養蚕および農作物好況なるをもって、何等の打撃なきが如し。漁民は不漁続きのため幾分困難なりしも、数日前鰺(あじ)漁あり、やや生計緩和せり。」(『千葉県史』による)