大正デモクラシーを推進したのは、サラリーマン・教師・弁護士・記者等の新しい中間層であった。その思想的中核をなしたのは、東大教授吉野作造の民本主義である。君主国である日本の実情を考慮して、主権在民を意味する民主主義という言葉は使わなかったが、
一、政治の目的は、一般民衆のためにある。
二、政策の決定は、一般民衆の意向によって行なわなければならない。
二、政策の決定は、一般民衆の意向によって行なわなければならない。
とし、言論の自由、普通選挙の実施、政党政治を主張した。
普通選挙の要求は明治末期からあったが、平民宰相といわれた原首相でさえも、これを取り上げる気持ちは少しもなかった。原内閣は、大正七年(一九一八)九月二五日日本最初の実質的政党内閣として成立した。閣僚も外務・陸軍・海軍の三大臣を除いて、他は全部政友会員をあてた。原敬が爵位をもっていなかったので平民宰相といわれたのであるが、米騒動という民衆のエネルギーに驚いた元老や官僚と、これを巧みに利用した原の貴族院枢密院工作による妥協の産物であり、世論を抑える手段であった。
原内閣の四大政策といわれるものをみると、
(一) 教育施設の改善充実
(二) 交通機関の整備
(三) 産業および通商貿易の振興
(四) 国防の充実
(二) 交通機関の整備
(三) 産業および通商貿易の振興
(四) 国防の充実
となっているが、(一)は大学・高等専門学校の拡充であり、(二)は鉄道敷設をエサに、徹底的に党勢拡張に努め、(三)は財界保護に終始し、(四)で財政を破綻させただけである。民生の安定、福祉の増進など一片もなく、その積極政策は、増税、国債の多発と、国民生活を圧迫するだけであった。
元々、選挙権を有する者は、直接国税を納めることのできる生活上位者に限られていたので、有産階級に奉仕する政治を行なわなければ、次の選挙で没落することは明らかである。民意を代表する国会議員を選ぶには、選挙権を無産の大衆に拡大する以外になかった。
普選運動は、有識者や進歩的政治家により続けられていたが、大正七年の米騒動の直後から、大衆運動として高まった。地方都市で続々と普選期成同盟が結成された。東京では、大衆により運動が展開された。大正九年には、全国的大新聞が普選即行論にふみ切り、運動は大いに盛り上った。尾崎行雄が長マントに「普選要求」の白タスキをかけて、デモの先頭に立ったのもこのころである。しかし、大正九年(一九二〇)五月の総選挙で、政友会が圧勝し、普選運動は下火となった。
大正一〇年一一月四日、原首相は東京駅で暗殺された。以降政党内閣は途絶え、貴族院や官僚を中心とした内閣が続く。ワシントン軍縮会議、シベリア撤兵、不況などで社会情勢も変わり、軍人が世論をはばかって、背広で外出するという時代となった。
大正一一年(一九二二)から翌年にかけて、普選運動は再び盛り上った。大正一二年二月二三日のデモは、全国各地からの参加者も加えて一〇万人に達した。普選運動の推進母体である憲政会ですら、これ以上の民衆運動の高まりを恐れ、大衆運動の打ち切りを宣した。しかし、蒔いた種は全国に散って成長していった。
大正一三年一月一六日、第一党の政友会が分裂し、一四八名が脱党して政友本党を結成し、清浦特権内閣支持にまわった。残った政友会は、憲政会、革新クラブと手を握り、護憲運動に乗り出した。そして、清浦内閣の強行解散による五月一〇日の総選挙では、憲政会が一五三名の当選者を出して第一党となり、政友会の一〇一名、革新クラブの三〇名を合わせて絶対多数を占めるに至った。清浦内閣は、六月七日総辞職し、憲政会総裁加藤高明が組閣を命じられ、漸く普通選挙制度成立の目途が立った。以降、昭和七年(一九三二)の五・一五事件まで、二大政党の党首が交互に組閣するという慣例が続いた。
大正一四年(一九二五)三月二九日、第五〇議会で待望久しい普通選挙法が、貴族院と枢密院の猛烈な抵抗を受けながらも成立した。満二五歳以上の男子が、貧富に関係なく、同等に選挙権を持つ、というので、大きな商店などでは、主人も番頭も丁稚(でっち)も同権となり、閉口した丁稚が選挙権の返上を申し出た、という笑話もある。当時の民度を示すものであろう。ここで、わが国の選挙権の推移を振り返ってみると、明治二二年の第一回総選挙の有権者は、満二五歳以上の男子で、直接国税一五円以上を納める者に限られ、その総数は四万一千人、実に総人口の一・一%であった。明治三三年の改正で、直接国税一〇円以上納付者となったが、それでも有権者数九八万三千人、人口比二・二%にすぎなかった。大正八年の改正で、直接国税三円以上納付者となり、有権者数三〇六万九千人、人口比五・五%と増えたが、大正一四年の普通選挙法により、有権者数一二四〇万九千人と、一挙に四倍となり、人口比も二〇・一%と躍進した。しかし、婦人参政権については、論じる者はあったが、国民の大多数は無関心であった。