被害は関東一円から山梨・静岡に及び、死者一〇万余人、負傷者四万余人、家屋の倒潰焼失は六〇万戸を越えるという大被害となった。
千葉県の罹災世帯数を『千葉県史』でみると、全焼四六三、半焼五、全潰一万二四〇二、半潰六〇九五、全流失七一、半流失九、破損一五八二、家屋に被害はなかったが罹災した世帯一九七、合計二万六八二七世帯に達している。死者行方不明者は一三〇五人に及ぶが、この内安房郡が一〇九一人を占めている。安房郡では、津波による漁船の流失や破損も多く、房州海岸の被害は、はかり知れないものがあった。なお、ここに示した数字は、千葉県常住者だけのものであり、東京からの避難民は一五万にも達し、その中から多くの死亡者が出たので、千葉県における死者行方不明者は合わせて二六五一人に及んだ。幸に、長生郡の被害は軽かったが、それでも死者行方不明者四人を出している。
関東大震災を経験した人はすくなくなったが、それでも、当時の模様を語る古老が残っている。「人力車を雇って茂原へ行った帰り、鷲巣地先で突然車からほうり出された。頭から一回転して路上にはい車夫の方を見たら、取手を地面につけてうずくまっていた」という。(針ケ谷三橋胤雄氏談)また、「長柄の台畑で草取りをしていたら、遠くの雑木林がユサユサと揺れ、それがだんだん近づき、地面がぐらぐらと動いた。夢中で畑の中をはい回った」と。とても歩けるものでなかったようだ。それから数日間は、庭先や竹藪に蚊帳(かや)をつって寝たという。
地震・雷・火事・親爺という諺があるが、突如として襲ってくる地震は一番恐ろしい。人口が集中し、高層ビルが林立し、石油コンビナートが立並ぶ今日、巨大地震がもたらす被害は想像を絶するであろう。パニックによる二次災害も十分警戒しなければならない。大正十二年の大震災をみても、「不逞朝鮮人来襲」という流言のために、日本史に汚点を残すようないまわしい事件が発生した。
一日の夕方から、東京・川崎・横浜の一部から、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」といった流言が流れた。この流言は、あっという間に広がり、二日午後には東京全域をつつんだ。こうして、関東一帯に戒厳令が布かれ、各地に自警団が組織され、無辜(むこ)の朝鮮人だけでなく、日本人も数多く殺された。社会主義者の弾圧もひどく、大杉栄は妻と幼い甥と共に拉致され、甘粕憲兵大尉らの手により絞め殺された。さすがにこの事件は隠しきれず、甘粕大尉は軍事裁判にかけられたが刑は軽く、三年後には仮出所し満州へ去った。
千葉県でも各地に、竹槍や棍棒を持った自警団が組織され、各部落ごとに三~四ケ所の小屋が臨時に立てられ、夜はそこに五名ぐらいずつ当番で不寝番をつけ、夜は二時間おきに二人一組で巡廻したが、これは九月の末に廃止となった。幸なことにこの地域では殺傷事件は全く無かった。この流言は、官憲から意図的に流された傾向が強く、朝鮮人被害の実態など明らかでない。それにしても、非常時の異常心理や群衆心理は恐ろしい。冷静に考えれば、自分の身を守るだけでも精一杯な大災害の中で、放火などして回る余裕はない。東京中を駆け回って、井戸の中にほうり込む程の毒が、とっさの場合手に入るはずがない。少し理性をはたらかせれば、実に荒唐無稽な話であることがわかる。歴史は鑑である。今後のための頂門の一針としなければならない。
震災後の東京の復興は目ざましかった。被害の少くなかった丸の内は、オフィス街として事業所が二倍にふくれ上った。渋谷や新宿は、単なる盛り場から副都心としての形を整えてきた。三越・松坂屋・松屋・伊勢丹などのデパートが続々と銀座に進出した。私鉄も次々と運行を開始し、大正一四年(一九二五)にはラジオ放送も始まった。モダンボーイやモダンガールが銀座を徘徊し、サラリーマンはカフェ・ダンスホール・レストランで楽しんだ。しかし、世の中は何んとなく不安で物悲しかった。都会生活にあこがれて農村を出る者は多かったが、労働需要は頭打ちで、日傭労働者になる以外になかった。大学生の就職も困難となり、「大学は出たけれど……」というわけで、毎日履歴書を懐に歩き回る者がふえた。それは、一部の者のモダンな生活と裏腹のもので、「船頭小唄」や「籠の鳥」といった哀愁を誘う歌が流行した。
大震災害工事竣成記念碑
(鴇谷犬飼神社境内)
千葉県では、大正末期をわかした鬼熊事件が発生した。大正一五年七月二〇日、香取郡で荷馬車挽きの岩淵熊次郎という男が、情婦の心変りを怒ってこれを撲殺し、男の家に放火して山へ逃げ込んだ。警察では大捜査陣を張り山狩りを繰り返したがつかまらなかった。鬼熊は同情する村人から飯をくわしてもらっては、山へかくれていた。その間、巡査一名を殺すという凶行を重ねたが、四〇日後の九月三〇日、先祖の墓前で自殺した。この凶悪な鬼熊に奇妙な同情が湧いたところにも、うっ積した時代相の反映を見るのである。
(後の日吉村長山越信司も、一刑事として鬼熊逮捕にむかい、指を斬られた。)