八 関東大震災と大正末期の世相 8 The Great Kanto Earthquake and the late Taisho era

23 ~ 26 / 756ページ
 大正一二年(一九二三)九月一日正午二分前、関東南部は烈しい地震に襲われた。震源地は相模湾北西部で、マグニチュードは七・九であった。震源地に近い小田原は、ほとんど全滅状態で、家屋の八~九割が倒潰し、市内は全焼した。東京では下町の家屋倒潰が多く、昼食時であったため各所で火の手があがり、大惨事となった。ことに両国横網町の陸軍被服廠跡の空地に避難した三万八千の人々は、三時半ころ旋風がおこり、持ち込んだ荷物に火がついて一挙に焼け死んだ。
 被害は関東一円から山梨・静岡に及び、死者一〇万余人、負傷者四万余人、家屋の倒潰焼失は六〇万戸を越えるという大被害となった。
 千葉県の罹災世帯数を『千葉県史』でみると、全焼四六三、半焼五、全潰一万二四〇二、半潰六〇九五、全流失七一、半流失九、破損一五八二、家屋に被害はなかったが罹災した世帯一九七、合計二万六八二七世帯に達している。死者行方不明者は一三〇五人に及ぶが、この内安房郡が一〇九一人を占めている。安房郡では、津波による漁船の流失や破損も多く、房州海岸の被害は、はかり知れないものがあった。なお、ここに示した数字は、千葉県常住者だけのものであり、東京からの避難民は一五万にも達し、その中から多くの死亡者が出たので、千葉県における死者行方不明者は合わせて二六五一人に及んだ。幸に、長生郡の被害は軽かったが、それでも死者行方不明者四人を出している。
 関東大震災を経験した人はすくなくなったが、それでも、当時の模様を語る古老が残っている。「人力車を雇って茂原へ行った帰り、鷲巣地先で突然車からほうり出された。頭から一回転して路上にはい車夫の方を見たら、取手を地面につけてうずくまっていた」という。(針ケ谷三橋胤雄氏談)また、「長柄の台畑で草取りをしていたら、遠くの雑木林がユサユサと揺れ、それがだんだん近づき、地面がぐらぐらと動いた。夢中で畑の中をはい回った」と。とても歩けるものでなかったようだ。それから数日間は、庭先や竹藪に蚊帳(かや)をつって寝たという。
 地震・雷・火事・親爺という諺があるが、突如として襲ってくる地震は一番恐ろしい。人口が集中し、高層ビルが林立し、石油コンビナートが立並ぶ今日、巨大地震がもたらす被害は想像を絶するであろう。パニックによる二次災害も十分警戒しなければならない。大正十二年の大震災をみても、「不逞朝鮮人来襲」という流言のために、日本史に汚点を残すようないまわしい事件が発生した。
 一日の夕方から、東京・川崎・横浜の一部から、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」といった流言が流れた。この流言は、あっという間に広がり、二日午後には東京全域をつつんだ。こうして、関東一帯に戒厳令が布かれ、各地に自警団が組織され、無辜(むこ)の朝鮮人だけでなく、日本人も数多く殺された。社会主義者の弾圧もひどく、大杉栄は妻と幼い甥と共に拉致され、甘粕憲兵大尉らの手により絞め殺された。さすがにこの事件は隠しきれず、甘粕大尉は軍事裁判にかけられたが刑は軽く、三年後には仮出所し満州へ去った。
 千葉県でも各地に、竹槍や棍棒を持った自警団が組織され、各部落ごとに三~四ケ所の小屋が臨時に立てられ、夜はそこに五名ぐらいずつ当番で不寝番をつけ、夜は二時間おきに二人一組で巡廻したが、これは九月の末に廃止となった。幸なことにこの地域では殺傷事件は全く無かった。この流言は、官憲から意図的に流された傾向が強く、朝鮮人被害の実態など明らかでない。それにしても、非常時の異常心理や群衆心理は恐ろしい。冷静に考えれば、自分の身を守るだけでも精一杯な大災害の中で、放火などして回る余裕はない。東京中を駆け回って、井戸の中にほうり込む程の毒が、とっさの場合手に入るはずがない。少し理性をはたらかせれば、実に荒唐無稽な話であることがわかる。歴史は鑑である。今後のための頂門の一針としなければならない。
 震災後の東京の復興は目ざましかった。被害の少くなかった丸の内は、オフィス街として事業所が二倍にふくれ上った。渋谷や新宿は、単なる盛り場から副都心としての形を整えてきた。三越・松坂屋・松屋・伊勢丹などのデパートが続々と銀座に進出した。私鉄も次々と運行を開始し、大正一四年(一九二五)にはラジオ放送も始まった。モダンボーイやモダンガールが銀座を徘徊し、サラリーマンはカフェ・ダンスホール・レストランで楽しんだ。しかし、世の中は何んとなく不安で物悲しかった。都会生活にあこがれて農村を出る者は多かったが、労働需要は頭打ちで、日傭労働者になる以外になかった。大学生の就職も困難となり、「大学は出たけれど……」というわけで、毎日履歴書を懐に歩き回る者がふえた。それは、一部の者のモダンな生活と裏腹のもので、「船頭小唄」や「籠の鳥」といった哀愁を誘う歌が流行した。
 

大震災害工事竣成記念碑
(鴇谷犬飼神社境内)

 千葉県では、大正末期をわかした鬼熊事件が発生した。大正一五年七月二〇日、香取郡で荷馬車挽きの岩淵熊次郎という男が、情婦の心変りを怒ってこれを撲殺し、男の家に放火して山へ逃げ込んだ。警察では大捜査陣を張り山狩りを繰り返したがつかまらなかった。鬼熊は同情する村人から飯をくわしてもらっては、山へかくれていた。その間、巡査一名を殺すという凶行を重ねたが、四〇日後の九月三〇日、先祖の墓前で自殺した。この凶悪な鬼熊に奇妙な同情が湧いたところにも、うっ積した時代相の反映を見るのである。
 (後の日吉村長山越信司も、一刑事として鬼熊逮捕にむかい、指を斬られた。)