九 大恐慌 9 The Great Depression

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 四年半にわたる第一次世界大戦により、ヨーロッパ諸国が壊滅的打撃を受けている間に、アメリカ合衆国の経済力は著しく増進し、遂に世界経済を支配するに至った。農産物を輸出する。工業製品を輸出する。ヨーロッパ各国に貸し付けた金利を吸い上げる。世界中の金が合衆国に集ってしまう勢いであった。その合衆国の景気が、昭和二年(一九二七)秋にかげりを見せ、生産が減退しはじめた。消費の限界に突き当たったのである。合衆国政府は、金融をゆるめ景気を剌激しようとした。そのため、翌昭和三年に熱狂的株式投機が始まり、ヨーロッパに向けられたアメリカ資金は引きあげられて国内投資に回るだけでなく、ヨーロッパ自体の資金もアメリカに吸収されはじめた。資金の減ったヨーロッパでは、物資の買い付けが減り、アメリカの輸出は停滞をはじめた。こうして、昭和四年(一九二九)一〇月二四日、ニューヨーク株式取引所で株価の大暴落がはじまった。これがきっかけで物価の急落がはじまり、やがて生産縮小、失業の増大となる。アメリカ経済の転落は、昭和七年(一九三二)ころ底をつくが、生産は半分に、輸出は三分の一に低下し、失業者は一、二〇〇万人に達したといわれる。
 既に、アメリカ経済の支配下にあったヨーロッパ諸国は、総て大恐慌の波に巻き込まれ、いわゆる世界大恐慌となった。第一次世界大戦以降、慢性的不況に悩まされていた日本経済は、この世界恐慌により一層の打撃を受け、昭和四年を基準とすると昭和六年には、物価は三五%、国民所得は三〇%、工鉱業生産は二五%も落ち込み、失業者は七〇%もふえて約百万人に達した。職に在る者も賃金の遅配、欠配が当然のようになり、ストライキが全国的に発生した。争議の手段として、煙突男が現れたのもこの頃である。欠食児童、娘の身売り、嬰児(えいじ)殺し、一家心中、行き倒れ、ルンペン、売春、強盗と、暗いニュースが多くなった。
 このような中で、特に窮乏のはげしかったのは農村である。先ず、農産物価格の下落がひどかった。昭和元年を基準とすると、昭和六~七年の米価は半値、マユは三分の一と低落した。米価は、不況による需要減と、昭和五年の豊作がぶつかり、大暴落を招いてしまった。農家では、米価が安くて金が足りないので、飯米を削って売る。そのため、益々米価が下る、という悪循環も加わった。朝鮮や台湾の米がなだれ込んで来たことも原因する。日本領となってからの朝鮮や台湾では、品種改良や栽培技術指導の成果が現れ、米の生産が増加していた。しかも、この米は、内地米と比べ一〇~二〇%も安かった。(表4)
 

 

 一方、マユは、生糸需要の八〇%を占めていたアメリカ合衆国が大不況のため、輸出がばったりと止まった。元々、贅沢品である絹製品は、不況では買い手がなくなる。加うるにアメリカでは、人造絹糸が開発され、生糸の座を追いつつあった。
 このように、農産物価格がはげしく下がり、反面、農家の買う品は相対的に高く、殊に、肥料や農機具の価格はなかなか下がらない。税金や借金の利子、小作料は減額されない。地方譲与税などない時代であるから、村税は高かった。税収の基本は戸数割りであったから、村税を払えない農民がたくさん出て、役場職員や小学校教員の月給の遅配・欠配がおこるという有様であった。この時期、借金の担保となっていた農地が取り上げられるケースが多く、小作地が急にふえている。
 農村の窮乏に拍車をかけたのは、農家の人口増である。二、三男や娘の都市への就職口がふさがれた。都会で働いていた者も失業して帰村する。元々村では暮せないので都会に出たのであるから、その者たちが帰って来ては大変である。これは、全国共通の現象であるが、特に悲惨な状態に陥ったのは東北地方である。昭和九年(一九三四)の東北日本の大凶作は、窮乏に輪をかけ、娘の身売りが続出し、多くは売春婦となった。昭和時代とは考えられない悲惨さである。千葉県では、昭和八年・九年と大干害を受け、殊に九十九里平野がひどかった。これを機に各地で耕地整理や揚水施設工事が進められる。両総用水の構想が打ち出されたのも、このころである。農村が、漸く不況から脱出できたのは、昭和一一年(一九三六)以降である。