既に、アメリカ経済の支配下にあったヨーロッパ諸国は、総て大恐慌の波に巻き込まれ、いわゆる世界大恐慌となった。第一次世界大戦以降、慢性的不況に悩まされていた日本経済は、この世界恐慌により一層の打撃を受け、昭和四年を基準とすると昭和六年には、物価は三五%、国民所得は三〇%、工鉱業生産は二五%も落ち込み、失業者は七〇%もふえて約百万人に達した。職に在る者も賃金の遅配、欠配が当然のようになり、ストライキが全国的に発生した。争議の手段として、煙突男が現れたのもこの頃である。欠食児童、娘の身売り、嬰児(えいじ)殺し、一家心中、行き倒れ、ルンペン、売春、強盗と、暗いニュースが多くなった。
このような中で、特に窮乏のはげしかったのは農村である。先ず、農産物価格の下落がひどかった。昭和元年を基準とすると、昭和六~七年の米価は半値、マユは三分の一と低落した。米価は、不況による需要減と、昭和五年の豊作がぶつかり、大暴落を招いてしまった。農家では、米価が安くて金が足りないので、飯米を削って売る。そのため、益々米価が下る、という悪循環も加わった。朝鮮や台湾の米がなだれ込んで来たことも原因する。日本領となってからの朝鮮や台湾では、品種改良や栽培技術指導の成果が現れ、米の生産が増加していた。しかも、この米は、内地米と比べ一〇~二〇%も安かった。(表4)
一方、マユは、生糸需要の八〇%を占めていたアメリカ合衆国が大不況のため、輸出がばったりと止まった。元々、贅沢品である絹製品は、不況では買い手がなくなる。加うるにアメリカでは、人造絹糸が開発され、生糸の座を追いつつあった。
このように、農産物価格がはげしく下がり、反面、農家の買う品は相対的に高く、殊に、肥料や農機具の価格はなかなか下がらない。税金や借金の利子、小作料は減額されない。地方譲与税などない時代であるから、村税は高かった。税収の基本は戸数割りであったから、村税を払えない農民がたくさん出て、役場職員や小学校教員の月給の遅配・欠配がおこるという有様であった。この時期、借金の担保となっていた農地が取り上げられるケースが多く、小作地が急にふえている。
農村の窮乏に拍車をかけたのは、農家の人口増である。二、三男や娘の都市への就職口がふさがれた。都会で働いていた者も失業して帰村する。元々村では暮せないので都会に出たのであるから、その者たちが帰って来ては大変である。これは、全国共通の現象であるが、特に悲惨な状態に陥ったのは東北地方である。昭和九年(一九三四)の東北日本の大凶作は、窮乏に輪をかけ、娘の身売りが続出し、多くは売春婦となった。昭和時代とは考えられない悲惨さである。千葉県では、昭和八年・九年と大干害を受け、殊に九十九里平野がひどかった。これを機に各地で耕地整理や揚水施設工事が進められる。両総用水の構想が打ち出されたのも、このころである。農村が、漸く不況から脱出できたのは、昭和一一年(一九三六)以降である。