日露戦争以来、日本が独占的に保有していた満蒙の利権は、中国の民族運動の高まりの中で次第に動揺してきた。中国では、清朝滅亡後、各地に軍閥が割拠し、満州では張作霖が実権を握っていた。広東(カントン)には国民政府が樹立され、孫文が大元帥となった。孫文死後蒋介石が台頭し、同じく、急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党と合作して、北伐を開始した。北伐のねらいは軍閥を駆逐し、中国を統一することにあった。
大正一五年(一九二六)一二月、華南討伐が成り、首都は広東から漢口に移され、武漢政府が成立した。このような機運の中で、中国民衆の反帝国主義運動が盛り上り、中国に権益を有する西欧諸国や日本が攻撃目標とされるに至った。
一方、中国共産党と国民党の間に亀裂が入り、蒋介石を中心とする国民党右派は別行動をとるに至った。昭和二年、クーデターを起こした蒋介石は、共産党に大弾圧を加え、南京に国民政府を樹立した。
北京にいた張作霖は、この機会を逃さず南下を開始し、楊子江まで進出したが、蒋介石は北伐を再開し、張作霖軍は逃げ帰って、北京、天津地区で決戦をいどむ態勢をとった。西方の軍閥も北京をねらっていたので、張の運命は旦夕に迫る感があった。
このような状況下で、昭和二年五月二八日、日本軍の第一回山東出兵が行なわれた。このときは、北伐の一時中止で国民政府軍との衝突は免かれたが、昭和三年に至り、北伐が再開されると再び山東に出兵し、済南を総攻撃し中国側に多数の死傷者を出した。このことにより、中国民衆の排日運動は燃え上り、慎重に日本軍との正面衝突を避けていた蒋介石も、俄然、対日政策を硬化した。
北京の張作霖は、なお華北で国民政府軍と一戦を交えるつもりでいたが、日本の説得で満州へ引きあげた。日本としては、戦って敗れれば、国民政府軍が張を追って満州まで攻め込んでくるであろうことを恐れたのである。このように、陰に陽に日本が応援している張でさえも、満州における排日運動を足がかりに、日本の意向に従わず、日本の利権に対抗するような行動に出ることが多くなった。
この間、軍部、特に満州に駐留する関東軍は、次第に本国政府の意に反し、独断専行することが多くなった。こうして発生したのが張作霖爆殺事件である。張を殺し、そのどさくさにまぎれて満州全域を占領しようという計画は、関東軍高級参謀河本大作大佐により進められ、昭和三年六月三日、奉天付近で列車ごと爆殺した。父の死を聞いて駆けつけた張学良は、関東軍の挑発に乗らず、日本軍に対し友好的に振舞ったので、関東軍は出兵の機会を失った。しかし、張は事態が静まるのを待って、同年暮には支配下の東北三省(奉天・吉林・黒竜江)に青天白日旗を掲げ、南京政府から東北辺防総司令に任命され、公然と関東軍に反抗した。関東軍と中国軍が正面から衝突しなかったのは、共産軍と国民政府軍の内戦によるものであった。