2 満洲事変と満洲国の成立

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満州の関東軍は、絶えず中国軍との開戦の機を窺っていた。こうして、昭和六年(一九三一)九月一八日夜「奉天北郊、北大営付近の満鉄線柳条溝を中国軍が爆破した」という事件をつくり、一挙に北大営を攻撃占領した。これが満州事変の発端であり、戦線は満鉄線沿線から満州全域に広まった。日本政府は、軍部のクーデターを恐れて抑止力をもたず、張学良は、自分の地位の崩れるのを恐れて戦わず、共産軍と死闘中の国民政府軍は手がまわらず、関東軍は勝手気ままに兵を動かし、各地に軍閥の地方政権をつくって行った。
 昭和七年(一九三二)三月一日、関東軍は、天津に蟄居していた清国の廃帝溥儀をかつぎ出して執政とし、満州国を発足させた。この間、関東軍の行動は謀略につぐ謀略で、本国政府の命令は一切聞かず、国内情勢もこれを追認する形で、軍部が政権をろう断する方向へと突き進んだ。昭和九年三月一日、満州国は帝制をしき、薄儀が皇帝となったが、どこも承認する国はなかった。