3 吹き荒れるテロと軍部フアッショ

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昭和七年、一人一殺を唱える血盟団事件が発生した。二月九日、前蔵相井上準之助が、三月五日、三井財閥の総帥団琢麿が暗殺された。警察はやっと血盟団組織を突きとめ、暗殺は二人で終った。同年五月一五日血盟団の流れをくむ陸海軍人と民間右翼は、首相官邸に犬養首相を襲いこれを殺した。(五・一五事件)彼らのねらいは、私欲に走る重臣や政界、財界の大物を殺し、国家改造を図ろうとするものであったが、暗殺成功後の計画は何んにもなかった。こうした事件が却って美化され、やがて陸軍を中心としたファシズム体制へ移行する。社会主義者はもちろん、自由主義の学者、文化人に至るまで大量に投獄あるいは追放されるようになる。こうして、全体主義化した日本は、昭和八年(一九三三)三月二八日、満州建国に関し日本を攻撃する国際連盟から脱退し、世界の孤児となった。
 昭和一一年(一九三六)二月二六日午前三時ころ、前日から降り続いた雪の中、今までにない大規模な叛乱が勃発した。いわゆる二・二六事件である。この事件に参加したのは、陸軍大尉野中四郎以下将校二二名、下士官・兵約千四百名で、兵隊は近衛歩兵第三連隊、第一師団歩兵第一連隊・第三連隊が動員され、重機関銃・軽機関銃まで持ち出す、という大変な装備で、遠方へは軍用トラックで乗り込んだ。襲撃先は、総理大臣官邸(岡田啓介首相は、妹の夫松尾伝蔵予備陸軍大佐が誤殺されてたすかる)斉藤実内大臣私邸(即死)陸軍教育総監私邸(渡辺錠太郎総監は、ピストルで応戦の上射殺)大蔵大臣私邸(高橋是清蔵相即死)侍従長官邸(鈴木貫太郎侍従長重傷)牧野伸顕前内大臣湯河原別邸(難を免かる)内大臣官邸(後藤内相不在)陸軍大臣官邸(川島陸相は暗殺対象でなく、官邸が占拠される)この外、警視庁・陸軍省をはじめ、議事堂を中心とする官庁街のほとんどは、以降二九日まで占領されてしまった。警備の憲兵や警官は勇敢に応戦したが、衆寡敵せず、ほとんど射殺され、被害を受けた高官は、蜂の巣のように銃弾を撃ち込まれた。
 

半蔵前の叛乱軍兵士

 叛乱軍指導者の主張は、「万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生成化育を遂げ、終(つい)には八紘一宇(はっこういちう)を全うするの国体」を護持するという狂信的なもので、元老・重臣・軍閥・官僚・政党等が国体破壊の元凶であると考えていた。
 海軍は、この事件を頭初から叛乱とみなし、陸戦隊を芝浦に上陸させて海軍省の警備につかせるとともに、土佐沖で演習中の連合艦隊に打電し、第一艦隊を東京湾に集結させた。二七日午後には、旗艦長門以下四〇隻が御台場付近に展開し、同時に野砲まで伴った重装備の陸戦隊が上陸した。この時点では、海軍の大先輩である、鈴木貫太郎・斉藤実・岡田啓介の三大将が殺されたと信じていたので、憤激は大きく、危く国会議事堂が粉砕されるところであった。
 一方、陸軍は大揺れに揺れた。皇道派と称する叛乱軍に同情する派と、統帥派と称する組織的改革派の対立があり、鎮圧が大幅に遅れた。天皇からのきびしい命令により戒厳令がしかれるに及んで、皇道派の上級将校は叛乱軍を見捨てた。天皇の怒りははげしく、「自ら近衛師団を率いて鎮定に当たらん」といわれたと本庄繁は記している。
 当時小学生であった筆者は、父の緊張した顔付きや、近所の人とのひそひそ話から、何か一大事が発生したことを感じたが、不思議と学校では何んの話しもなかったように思える。情報は誇大に伝わるものである。一時は、大臣がみんな殺されたとか、陸軍と海軍の間で戦争が始まるとか、秩父宮が東北の軍隊を率いて東京へ攻めのぼってくるとかいったデマも流れた。東京に近い佐倉や甲府の連隊は、急拠出動したので、千葉県の人心も戦々恐々としていた。後に、「下士官・兵に告ぐ。今からでも遅くないから原隊へ帰れ」というビラの文句が流行語となった。この事件は、戦火を交えることなく収ったのであるが、事件の処理は速くきびしく、七月に将校一七名が死刑となり、翌八月、民間人で、理論的指導者であった北一輝と西田税も死刑となった。
 この事件で陸軍が反省するところは少しもなく、期せずして実権を握った統制派により、更に大がかりな戦争へと向っていった。