中国では、蒋介石の率いる国民政府軍と、毛沢東の率いる共産軍との間で、果てしない内戦が続いていたが、日本軍の華北進出が強まるにつれ、国・共共同して日本軍に対抗する機運が高まってきた。
昭和一二年(一九三七)七月七日夜、北京郊外蘆溝橋(ろこうきょう)付近で夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。日本政府の戦争不拡大方針にもかかわらず、戦線はたちまち華北一帯に広がり、上海にも飛火し、同年一二月には首都南京も陥落した。国民政府は重慶に移って徹底抗戦の構えをとり、共産軍も最後まで抗戦することを唱えた。威力を示せば簡単に屈服すると考えた軍部の見通しは全く崩れ、泥沼のような長期戦となった。