一二 戦時下の生活 12 Life during the late war

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 昭和六年満州事変勃発から一四年間は、長く苦しい戦時下の生活であった。昭和一二年、日本軍が中国大陸で破竹の進撃を続けていたころから、既に物質生活に大きな影響が現れてきた。軍需に関係する鉄その他の金属、ガソリンあるいは綿製品の使用が制限されはじめた。
 昭和一三年、国家総動員法案が議会に提案された。これは、戦時に際し、国家総動員上必要あるとき、物資・生産・金融・経理・物価・労働など、経済のあらゆる面で政府の命令一本により、強制的に統制措置ができる、というもので、法治主義国家では考えられない内容であった。議案審議中に、説明員の佐藤中佐が、国会議員に対し「黙れ」と叫んだ。この一喝は、議会政治の否定であり、既に日本が、ファッショ的独裁政治体制となっていたことを示す事件であった。
 経済統制と併行して、思想統制が強化された。戦争に批判的な思想や集団に大弾圧が加えられ、共産主義者は元より、個人主義者あるいは自由主義者も逮捕または追放された。
 しかし、最もきびしい統制を受けたのは農村であった。戦争は食糧危機を招く。召集により戦場にかり出された兵隊は、その半数以上が農村の青年であった。軍隊だけでなく、軍需工場へも女子を含めた農村労働力が大量に吸収された。そのため、農村労働力は著しく不足した。農村労働力は女子化・老齢化し、加うるに軍需産業優先で、肥料や農機具は不足する。米の生産は当然停滞または減少した。だが、食糧確保は至上命令であり、政府の米穀統制は強化され、きびしい供出制度の下に、戦争後半は生産者の飯米すら不足するようになった。政府買い上げ以外の米の移動は禁止されていたので、都会の親戚に白米一~二升を持って行くことも難しく、検問にあって没収されたり、幸に持ち込めても冷汗三斗の思いを経験した者はたくさんいる筈である。やがて、衣料からマッチに至るまで配給制となり、「スフ」が幅を利かし、「いかけ屋」が繁昌し、家庭では毎晩「くつ下の修理」が行なわれるようになった。以下、年代を追って戦時下の世相を拾ってみる。
昭和一三年
○ 国家総動員法案衆院可決
○ 戦時統制で金属が手に入らなくなり、「おけ屋」が繁昌しはじめる。
○ ガソリン不足で、木炭自動車が考案された。
○ 国内向け綿製品の製造、加工、販売が禁止され、靴も牛皮使用禁止となる。この頃から、「スフ」や「サメ皮靴」が登場しはじめる。
○ 学徒の夏季集団勤労を文部省が指令、農村へも援農隊がくるようになる。
○ 軍国歌謡大流行、露営の歌、軍国の母、愛国行進曲、日の丸行進曲等ヒットする。

昭和一四年
○ 「ぜいたくは敵だ」という標語生れる。
○ 軍事教練が大学の必修科目となる。
○ 国民徴用制はじまる。
○ 物価統制令が実施され、「ヤミ値」ということばが生れる。
○ 米の配給制実施、白米禁止令出る。「ヤミ米」が登場する。
○ お寺の鐘など、金属回収はじまる。
○ 一汁一菜、日の丸弁当が強制される。
○ 警防団が組織され、防空ズキン、モンペ姿で、バケツリレーで水を運ぶ訓練はじまる。
○ 満州千葉村建設が決まり、先遣隊員一六人が出発する。
○ 南総鉄道が行きづまり、営業を停止した。

昭和一五年
○ 大政翼賛会千葉県支部結成、事実上政党は解消する。
○ 千葉市今井町地先の浅海を埋めたて、日立製作所、同航空機製作所建設が確定し、起工式が行なわれる。
○ 米穀の強制出荷命令発動
○ ダンスホール閉鎖
○ 砂糖・マッチの切符制実施
○ 国民服制定
○ 県中学校連合演習を、習志野、下志津原で行なう。
○ 隣り組制度できる。国民歌謡「隣組」が、「とんとんからりと隣組」と歌われる。
○ 「撃ちてしやまん」と戦意をあおる標語が現れた反面、「あのねー、おっさん、わしゃかなわんようー」が流行したが、間もなく禁止された。

昭和一六年
○ 日本に対する米(A)英(B)中国(C)蘭(D)の経済封鎖が強化された。これをABCD対日包囲陣と称し、一二月八日勝算のないまま、真珠湾に奇襲攻撃をかける。
○ 小学校が国民学校となる。
○ 千葉県防空本部から、灯火管制が各市町村に通達される。
○ 物資のヤミ取締り強化される。

昭和一七年
○ 県下各地に翼賛壮年団が結成される。
○ 第二一回衆議院議員選挙が行なわれ、翼賛候補が大量に当選する。
○ 米軍機が本土初空襲、実害はなかったが心理的影響は甚大であった。
○ 満蒙開拓青少年義勇隊千葉部隊九一人が渡満する。
○ 県警本部から、敵国音楽ジャズの演奏禁止が通達される。
○ 衣料切符制実施、一年に、都市居住者は百点、郡部居住者は八〇点の切符をもらい、この点数内で衣料が買えた。例えば、背広五〇点、ワイシャツ一二点、タオルや手拭は三点であった。

昭和一八年
○ 金属の非常回収令が出て、鐘や銅線が供出された。
○ 男は国民服、女は元禄袖と、衣料簡素化運動が起こった。
○ パーマネント禁止
○ 第一回学徒出陣
○ 大学野球リーグ戦廃止
○ 「生めよ、ふやせよ」運動おこる。
○ 学童の竹槍訓練を実施する国民学校が現れた。
○ 九十九里海岸に、本土決戦に備えて防禦陣地の構築はじまる。県下の各町村では、竹槍の猛訓練がくり返された。
○ 敵性語禁止、煙草のチェリーは「桜」に、ゴーデンバットは「金鵄(きんし)」に改められた。この年、煙草の大幅値上げがあり、国民は、「金鵄あがって一五銭、はえある光三〇銭、いまこそきたるこの値上げ、紀元は二六〇〇年、ああ一億の民は泣く」と、紀元二千六百年奉祝歌の替歌を歌って、うっ憤を晴らした。同じように、愛国行進曲の替歌が「みよ東条の禿げ頭、ハエがとまればつるりとすべる、すべってとまってまたすべる、とまってすべってまたとまる、おお晴朗の禿げ頭」と歌った。東条内閣に対する反発が、無意識のうちに浸み出ているが、もちろん、東条のところは、普通「おっさん」が当てられていた。
○ 「ほしがりません、勝つまでは」の標語のように、耐乏生活も一段ときびしくなった。

 

都会学生による初芝の共同炊事(昭18年)

昭和一九年
○ B29爆撃機による本土空襲はじまる。郷土でも防空壕掘りが盛んに行なわれ、各区ごとに防空監視哨が立った。
○ 茂原飛行場建設のため、一般人から中等学校生徒まで大量に動員された。
○ 東京の本所二葉国民学校児童が集団疎開してきた。しかし、米軍の上陸地が九十九里浜と想定されたので、翌二〇年三月には岩手県へ移動した。(長柄町史本編、教育の項参照)
○ 空地利用の食糧栽培が行なわれた。
○ 都会では、自由販売の「ぞう炊食堂」が許可され、一杯二〇銭で売られた。
○ タバコが配給制となり、男子一日六本が配給された。
○ 「進め一億火の玉だ」という標語が出た。

 

援農隊来村(昭19年)
(初芝へ東京女子青年団及び東京大学生来る)

昭和二〇年
○ マリアナ諸島から発進するB29の爆撃により、日本の主要都市は、ほとんど焼野原と化した。アメリカの機動部隊が日本に接近し、艦載機の来襲も頻繁となる。茂原に海軍航空隊ができたので、郷土の人々は、絶えず機銃掃射の危険にさらされた。
○ 主食配給一日二合一勺、煙草の配給も一日三本となる。
○ 働き手を軍隊にとられた農家から、小作地が返えされ、地主は耕作に困った。
○ 米軍の九十九里浜上陸に備え、郷土には「護北部隊」が駐屯していたが、たまたまB29が墜落し、搭乗員斬殺事件が起きた。(長柄町史本編戦争と郷土参照)

 

(この斬殺事件は戦後三〇年、五〇年三月に至って、初めて週刊読売にその委細が報ぜられた。)

○ 八月六日、広島への原子爆弾投下は、大本営より「新型爆弾を使用せるものの如し」という形で発表になる。
  なお、「落下傘(らっかさん)ようのものが降下するから、目撃したら確実に退避すること」という注意事項が出された。
○ 八月一四日夜から翌朝にかけて、ラジオは「正午から重大放送がある」ことを何度も予告放送していた。その重大放送が、天皇自らの終戦放送であったが、並四球の国民型ラジオでは、うまく聞きとれなかった。何れにしても、完全に情報から切りはなされていた国民は、広島・長崎への爆弾が原子爆弾であることも知らず、近衛師団の一部がクーデターを起こし、玉音盤(終戦の詔書を天皇の声で録音したレコード)奪取騒ぎのあったことも知らず、突然の敗戦で虚脱状態に陥った。

  終戦により、ほとんどの統制はなくなったが、後には、被占領国民としての屈辱と、生きるためのきびしい試練が待ちかまえていた。