多くの人命と国富の大部分を失ない、有史以来初めての敗戦というショックにより、日本は混乱の極に達した。そのような中で、八月三〇日、連合軍最高司令官マッカーサー元帥は、いち早く厚木に到着、これより昭和二六年(一九五一)九月四日のサンフランシスコ平和条約調印まで、日本は占領軍の軍政下に置かれる。
軍政は性急で容赦がない。昭和二〇年九月一一日戦争犯罪者逮捕命令、一〇月一〇日全国の思想犯・政治犯の釈放、一一月財閥解体指令、一一月九日農地改革指令、同一五日婦人参政権を盛り込んだ選挙法改正と、僅か四か月間に次々と改革の手が打たれた。もちろん言論統制もなくなった。
初期軍政のねらいは、日本が再びアメリカ合衆国の武力的脅威にならぬようにすることであった。そのため、国家主義的思想や結社の禁止、経済の集中防止、天皇の神格否定、戦犯裁判、軍国主義者の公職追放等に力が注がれた。
一国の体質を決めるものは憲法である。民主化の嵐の中で、大日本帝国憲法は有名無実となった。新生日本の体質を決める日本国憲法は、昭和二一年(一九四六)一一月三日公布された。欽定憲法であり、不磨の大典とされた大日本帝国憲法も、敗戦という現実の前では一片の反古(ほご)となった。占領下においては、憲法以上の存在、連合軍最高司令部(GHQ)の指令が絶対的権限をもっていた。そして、この絶対的権力から矢次ぎばやに出る民主化指令に応えるには、明治憲法に代る新憲法の制定が急務であった。GHQからも、新憲法制定の示唆がなされたが、日本政府としては、天皇の地位をはじめ、改正点が余りにも大きく、且多かったので、作業は遅々として進まなかった。一方、国民を飢えから救う食糧問題をかかえ、また、国民としても憲法より先ず食うことが先で、関心は低かった。
GHQからの改正示唆を受け、幣原内閣では、憲法問題調査会を設けたのであるが、混乱の中で草案作成は進まず、失望したGHQでは、独自に憲法草案をつくり、二一年二月一三日日本政府に手渡した。明治憲法の手直し程度の草案を考えていた日本政府は驚愕してGHQと交渉を重ねたが、ほとんど修正なく、三月六日、日本政府より憲法草案として発表された。同年六月二五日、第一次吉田内閣により国会上程、一〇月七日議決、同年一一月三日公布、翌二二年(一九四七)五月三日施行された。
日本国憲法は、帝国憲法の改正でなく、全然異質の新しい憲法である。その特筆すべきものは次のような点である。
1 主権は国民にあり、天皇の地位は、日本国民統合の象徴となる。
2 戦争放棄をうたい、平和主義に徹した。
3 基本的人権を重視し、思想・学問・信教の自由を保障した。
4 国会を国権の最高機関とし、内閣及び司法との三権分立により、権力の片寄りを防いだ。
2 戦争放棄をうたい、平和主義に徹した。
3 基本的人権を重視し、思想・学問・信教の自由を保障した。
4 国会を国権の最高機関とし、内閣及び司法との三権分立により、権力の片寄りを防いだ。
この憲法改正をバネとして、民法はじめあらゆる法律が民主化されていく。その一環として、地方自治制度も大きく改正された。