終戦をさかいにして、わが国地方財政の歴史にはかつてない転機が訪れた。民主主義の新たな芽を育てるには、新たな土壌が必要であるというので、新憲法にうたわれた「地方自治」の精神に沿って、昭和二二年(一九四七)一〇月地方自治法が公布され、民主的な地方分権制度が打出された。さらに地方自治の裏付けをするために相前後して地方税法が改められ、これまで国税の附加税中心であった地方税を、国税からはっきり分離して独立税中心にうつし、翌二三年には地方財政法が新たに設けられ、地方団体の財政の運営や国の財政と地方財政の関係について、根本的な原則が明確に定められた。次いで昭和二五年(一九五〇)には、シヤゥプ勧告に基づいて、市町村税が府県税の附加税であったそれまでの体系を改め、府県税と市町村税を分離独立させて、特に地方分権の基礎としての市町村の財源を強化することに努力が払われた。
このようにして終戦後数年の間に、地方自治制度には大きな改革がほどこされ、地方税収も相当にふえたのに、地方財政の実情は依然として楽にならなかった。その原因は、第一に戦後のいろいろな制度の改革や新設によって、地方団体の行政分野が一躍広げられたことをあげなければならない。六三制の教育制度の実施や、いろいろな立法に基づく社会保障の充実など、いずれも地方財政の負担の増加となるものばかりで、このような行政は、国民全体の福祉の向上という大きな方針のもとに、国から義務づけられたものであったからである。
第二に行政や財政の制度に徹底した民主化がおこなわれたため、これに伴って機構の膨張と人員の増加が一時に支出増加の原因となったことである。
戦後の税制をみると、昭和二二年(一九四七)に地租、営業税、家屋税の三税が地方税に移されたので、地方分与税制度の中の還付税の制度はなくなり、さらに遊興飲食税も地方税に組み入れられたために、配付税は所得税、法人税、及び入場税の一定割合ということになった。ついで昭和二三年には、地方分与税制度という名称を改めて地方配付税制度とし、入場税が地方に移されて、配付税の財源は所得税と法人税の二税になった。
配付税制度は大筋において戦前の制度が受けつがれたが、これは、昭和二四年シャウプ税制使節団の勧告に基づいて地方財政平衡交付金制度の出現となった。
配付税制度は、半分を富裕であると否とを問はず、地方団体の人口に比例して支給し、残り半分を税収に反比例して、つまり弱小団体に対してその貧窮の度合に応じて支給したのであった。これでわかるように、配付税制度は地方財政のでこぼこを完全に調整する働きをもたなかった。
この欠陥を除くべく採用されたのが平衡交付金制度であるが、この制度は、一定の基準に基づいて計算される地方団体の税収入と財政需用とを見積り、財政需用が税収入をこえる団体に対して国が交付金を与えるというものである。しかしこの交付金の総額が国税の徴収額にしばられることなく、地方財政の実情にしたがって、交付団体と不交付団体とに分けられたことが、配付税と異なり困窮団体の財源を保証する点で画期的なものであった。平衡交付金制度は、地方財政を調整する効果は充分であったが、総額に天井がないため、実施後しだいにふくれる一方でこれが国の財政に重圧を加へるようになり、地方側について見ると安易な財政運営が見られるようになった。そこで地方制度を健全にしようとする制度本来の趣旨に反するので、地方制度調査会や税制調査会で検討の結果、昭和二九年度から地方財政制度は三転して地方交付税制度に変えることになった。
地方交付税制度は配付税制度と平衡交付金制度のあいの子である。すなわち地方団体の税収入と財政需用とを見積り、収入不足のもののみに、その程度に応じて交付される点はこれまでの平衡交付金制度と同じである。しかし交付金の総額は国税三税(所得税、法人税、酒税)収入額の一定割合とされた。
地方公共団体では、この地方交付税が全歳入に占める割合は非常に大きく、本町においても各年度とも三〇%を超へる額が交付されていた。地方自治体の行政が三割自治といわれているのも無理ないことである。
地方交付税の総額は国税三税の一定割合であるが、これまでの交付率の改訂をみると発足時が二二%三一年に二五%三二年に二六%、三三年に二七・五%、三四年に二八・五%、三七年に二八・九%、四〇年に二九・五%四一年に三二%と改められ現在にいたっている。