[[増産への努力]] [[Efforts to increase production]]

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 明治以来、農作物の収穫量をふやすために、郷土の人々は、さまざまな努力を払ってきたが、その方法を大きく分けると二つになる。
 第一は、農地を広げること。
 第二は、一定の農地からの収穫量をふやすこと。

 第一の方法ですぐ思いつくのは、原野や荒地を開拓して、耕地化することである。そのため長柄台地の開墾が長い間に亘って行われたことは明かである。しかしその資料は極めて乏しく詳細を明かにできないのが残念に思われるが、その一端は項を改め記すことにする。
 次に農地の区画を整えたり、用水排水を自由にして、同じ土地を二回にも三回にも利用できるようにする土地改良も農地を広げることと同じ効果をもつわけである。この面については、早くから日吉地区が熱心であったが、水上や長柄にも次第に及んでいる。
 第二の方法は、農業技術の改善ということである。明治以来、農会の指導に基づいて、品種の改良、病虫害対策新しい農機具の開発、稲作三要項など新しい栽培技術の導入にさまざまな苦心が払われてきた。その変遷の概要はほぼ別表「稲作栽培技術の諸画期」(県農地課)に示された通りであるが、この表をみて気づくことは、終戦後の昭和二五年(一九五〇)を境として、その後に飛躍的な発展がみられることである。
 即ち、昭和二五年以前は、技術の改善も極めて遅々たるものであり、「四つん這いの農業」と言われたように、徳川三百年の稲作の方式をうけつぐ「多労多肥」の農業技術の精神をうけついだ「三要項農業」とも言えるものであった。従って一度び自然の冷害や干害、台風に遭い、病虫害の発生をみれば、忽ち凶作となり手の施しようもなかった。
 ところが、昭和二五年以降は、様相を一変した。それが稲作革命と言われる、「保温折衷苗代の開発、早期栽培」技術の普及である。そして、これを可能にした農薬の発明、防除方法の改善、更には、精巧になった農機具、中でも不可能と思われた田植機の発明、土地基盤の整備等の実現である。
 この結果、米の反当り(一〇アール)収量は、明治五年〇・八四石(刑部)だったものが、大正三年に二・二七石、昭和一六年一・九八石、同二五年二・三一石となり、同三五年には、二・八石、五〇年には、三・一石と急速にふえている。(1)これも永い間の農民の努力と、科学の進歩に負うところが大きいわけである。
 ところが、最近(昭和四五年)は、収穫量がふえすぎた上、米一人当りの消費量が減少したため、米の生産を調整しようという問題が発生した。長い間増産一筋に努力して来た農民には、何ともやり切れない思いがする。農政の問題は、極めて重大である。長い将来を考え、慎重に対処してほしいものである。
 以上、増産への歩みを概観したが、次に、各項目毎に、郷土の人々の努力の跡を述べてみよう。