郷土に関係したものとしては、同年間に、長柄で二町五反三畝二二歩が開墾ずみ、針ケ谷村柳沢外六か所で野山地一町九反一畝一〇歩が開墾中であるという記録(2)があるだけである。
さて、ここに、旧長柄村の維新以前から大正一〇年までの戸数の変遷を示した表(3)がある。この表をみると、長柄村の戸数は、三九〇戸→六〇七戸と二一七戸増加しているが、その大部分は、二一三戸→四〇〇戸と一八七戸が台郷(特に山之郷、長柄山)に集中している。台郷は、原野や荒蕪地の多いところである。従って、それらの移住者は、台地の開墾に何等かの関係があったと推測できるのであるが、その資料はない。勿論、単に台郷の人々だけでなく、その周辺の、水上、日吉、二宮や下郷の人々が開拓に当ったことも、古老の話しによって明かである。
表1 旧長柄村戸数の変遷(役場統計) |
部落名 | 維新前 | 明治6年 | 同20年 | 大正10年 | |
台 郷 | 皿木 長柄山 六地蔵 山之郷 上野 中之台 山根 | 22戸 38 41 16 17 7 72 | 19 49 31 17 18 7 105 | 20 62 30 19 20 7 99 | 29 104 34 96 26 9 102 |
小計 | 213 | 246 | 257 | 400 | |
下 郷 | 味庄 船木 国府里 力丸 千代丸 | 56 31 30 43 17 | 56 32 28 43 17 | 62 31 45 44 17 | 65 35 53 33 21 |
小計 | 177 | 176 | 99 | 207 | |
合計 | 390 | 422 | 456 | 607 |
(山根は,台郷下郷に分かれているが,台郷に加えた) |
ただ、この広大な台地の開拓が、いつ頃、どのように進められたかは、横山豊比古家文書(上野)以外、「御小屋台」と「大野」の開拓記念碑が残されているだけである。しかもこの二基のうち、御小屋台のものは、秋元牧場の南端の林の中に放り出され、碑文を下にして横たわり、大野のものは、道脇寺安藤和子宅の竹藪の中に苔むしていて恐らくその存在を知る人は稀であろう。
当時開墾用具と言えば、鍬・鎌・鋸・鉈・位のものであって、すべては農民の汗と油の結晶であったというも過言ではあるまい。
現在、当時の開拓に当った古老も殆んど存命せず、その苦心を知る由もないので、僅かに残る前述した碑記を頼りに、当時の概要を述べ、広大な長柄台地開拓の一端を偲ぶよすがにしよう。