三百余戸で集団開拓―大野の開墾

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この原野は、山之郷にあって、七里野や大とかり野と共に古来から秣場として、自村内に適当な採草地を持たない一〇か村(山崎、押日、芦網、国府関、庄吉、真名(来知谷)、船木、中之台、上野、味庄)が、毎年山年貢を払って、夏草、冬茅等を刈り、肥料や燃料などにして生活の用に供していた処である。
 このように、山之郷村は、近隣の村々にとって、いわば生命線とも言うべき重要な土地であったのである。しかし、長い間には、いざこざがないわけでもなく、元禄一一年(一六九八)には、押日、山崎村と山之郷村の間で裁判沙汰になったこともあった。(4)
 明治維新の際、政府はこの土地を官有地として回収、五区に分けてしまった。(金奈山、宮前二、小山、辻、金生)これは大変なことである。そこで一〇か村の住民三百二一名は、この土地を、開拓して農地にしようと考え、成嶋国任、横山次郎作等を中心とし土地払下げの運動を起した。その後の開墾の状況を、横山家に残る文書と、大野開拓記念碑の碑記によって、記してみよう。
 まず、官有地払下げの申請書は、明治一七年(一八八四)一月、県令船越衛に提出され、翌年一月に許可された。続いて、開墾事業分担計画を立てた。(5)即ち各村毎に、どこの土地を誰が開墾するか、土地払下げ代金は誰がどれ位負担するかといった細かな計画であるが、これを、明治二三年一一月二九日、県に提出したところ、二四年六月一三日、千葉県知事藤島正健から「明治二三年一一月二九日開墾ノ為貸渡地事業分担願ノ件聞届ク」という許可書が届いた。
 この時払下総面積は、五三町九反六畝三〇歩(約五四ヘクタール)であったが、その一部を残し、四九町九反六畝二〇歩を開墾することにした。開墾地分担は、表2の通り決定された。
表2 開墾地分担表
分担者分担地及面積
横山治郎作 外  19名金奈山11町5反4歩
山崎義三郎 外  28名金奈山5町5反。宮前2町1畝9歩
山岸俊一 外  22名小山5町8反3畝18歩宮前1町歩辻2反3畝16歩
山崎長蔵 外  22名宮前2町3反8畝14歩
金坂芳蔵 外  19名宮前1町1反4畝1歩
川崎松蔵 外   6名宮前2反 辻2反8畝
蒔田儀平 外  80名辻8町4反1畝15歩
山本兼吉 外  16名辻1町5反6畝19歩
及川太一 外 100名辻6町7反7畝6歩 金生5町5反4畝9歩
備考外に共同出資のもの。小山2反上野区。小山1町7反7畝19歩中之台
(横山豊比古家文書による。)

 開墾期間は一〇か年という予定であったが、実際には、その倍の二〇年を費している。開墾の途中でも、しばしば、堀田測量技師を招いて実地測量をくり返し、精密な地図を作成した。
 結局、明治三四年(一九〇一)に嶋田林務官から払下げの許可があり、登記をすませて、すっかり配分が終ったのは、明治三七年一月で、その面積は、六五町二反余歩となった。払下代金は、予定通り一反歩二〇銭の割で、通計百三〇余円を納め、三百二一名の所有地となったわけである。
 この広大な開墾事業を記念して、明治四三年の夏、国府関大塚源三郎以下八名の発起人によって、「開拓記念碑」(6)が建立されたのであるが、その建設費は、発起人や村の有志、開拓地所有者等の義捐によったと記されている。
 更に碑文をみると「伐リ荊棘ヲ披キ榛莽ヲ各尽シ心力ラ稍ク奏ス其功ラ」とある。三百有余名の村人達が、二〇年という長い年月に亘って、「ばらやトゲの生い茂った木を切り、やぶ草を刈りとって、一心不乱に開拓に当り、やっと成功を収めた」という。誠に村人の協力一致の賜というほかはない。測量も数次に亘り精密を極めたので一六町歩も増している。碑文は、最後に、この事業をたたえ、次のように結んでいる。「径歴二十余年、開拓ノ事業始メテ全シ、斯ノ功百世ト雖モ金石二鏤シテ永ク赫然タリ」。と。