三〇年もかゝつた御小屋台の開墾

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御小屋台は、現在秋元牧場に生まれ変ったが、明治の中頃から、山根部落の人々によって開拓が行なわれたところで、五〇町歩(五〇ヘクタール)の面積をもっている。現在、牧場の片隅に、この開拓に尽力した大和久台作、その子良助及び林太郎吉に対する頌徳碑(7)があったが、みるも無惨に倒されている。明治四一年(一九〇八)一二月、山根村風戸徳右衛門外七名(大和久台作、遠藤儀一郎、鶴岡豊吉、大和久石太郎、畠山吉太郎、林覚蔵、林勇蔵)の発起人によって建てられたものである。
 この碑記によって、開墾の状況を推察してみよう。碑文によると、
 
 「御小屋台には、面積数十町歩の土地があり、この土地は、肥沃で、道路に接し、人家に近く、農耕にも便利で然かも、山根、千代丸両村の水源地にもなっていた。明治一二年(一八七九)山根の大和久台作、千代丸の林太郎吉両人は、この土地を開拓しようと計画を立てた。一方柴崎民五郎は、学校を観音台に建て(励業学舎)、学校の実習田を開拓しようと考え、有志三六名と相談して用地の払下げを国に申請し、御小屋台開拓の許可を得た。丁度同じ頃、藤川三渓(励業学舎の教師、徳島の人で岡本監輔の後をうけて、舎主となった)が、この土地は以前から自分に権利のある土地であると主張し、開墾に異議を唱え、政府に訴え出たので、有志の中には、そちらへつく者も出て、争は増々激しくなり、二〇年間も解決をみなかった。この間の事情は、一、二の資料がみつかったので、その内容について項を改めて記すことにした。
 その後、藤川三渓に対し大和久、林両人達から千円を与えて漸く結着がついた。なお、国吉某に属する土地数町歩も買収し、御小屋台の開墾が出来るようになった。そして、開墾をはじめて約一〇年、明治三五年(一九〇九)個人所有の水田として配分贈与を完了した。」
 
 と記されている。そして、碑記の終りには、碑を建てた理由を次の如く記している。「村人達は、三人(大和久台作、同良助、林太郎吉)の劬労を永久に残そうとしたが、良助氏は、「自分は父の素志をうけついだに過ぎず、何の功績があるわけでもありません」と辞退した。人々は、これこそ立派な心掛であるとその徳に感じ入り、この碑を建てたのである」と。
 

「大野開拓記念碑」碑文は注6にあり