御小屋開墾紛争について

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前述の御小屋台開墾に就いての紛争は、明治初年の混乱した世情をよく語るものであるので、ここに別に採りあげて触れる事としたい。
 この開墾について、二〇年間も争いが続いたというが、その実情を知る当時の資料については、次のような文書が残っている。
 1 「約定書廃起御尋上申書」
 2 「岡本監輔より民五郎への手紙。明治一五年一〇月四日」
 3 「十三松原開墾記、大和久良助記」
   以上、味庄、柴崎丞家文書であるが、他に、次の書物が参考になる。
   桑田透一著『藤川三渓伝』(昭和一五年版)

 このうち、「1」の文書が、最も解り易いので、次にその全文を記してみよう。
 この文書は、開墾地払下げ申請をした二六人中、一二人の代表から、県令に対し、藤川三渓の所行や上野村民の不当を取締ってほしいという上申書である。年代は明かでないが、明治一四年頃のものと思われる。
 
  約定書廃起御尋上申書
 右申上候先般御貸し下げ成し下され候地所開墾の義に付藤川三渓誰人へ相謀候者か、私共十二人へは一応の商議もなく報国社を設け、右拝借地毎に報国社開墾拝借地と号し候標木打立、拝借名義も之なく、地元人民へ地所を分附し、開拓致させ、其地より三分地を取除き会社基本地とし開墾着手に及び候に付ては、先般地所拝借願い奉り候際、私共諸事胆任致し候。出県等も尽力致され、しかのみならず出県費は勿論三渓往復費其の外諸費用等は悉く私共に差出させ、然るに右様の標木打立、拾弐人を欺き三渓一人拝借地を左右するは以ての外の事と存じ候得ども一応御県庁へ御伺申上候て、其後始末相尋申すべくと存じ候間、私共先般書面を以て御伺申上候処、三渓一人へ貸下げ候訳にこれ無く、二六人申し合せ願に付、其願意に基き御貸下げ相成候旨の御口達に付謹承仕り、夫より
 藤川前書不都合の始末談判の処、兎角曖昧の書面抔差遣し候に付、尚再度申談じ候処、同人右様不都合取計い申訳これ無きに付、先達而上申仕候通り、拝借人中岡本監輔及び成島畯造、中村丙午などに依頼に及び候には、自分は其地に望無之に付、諸君此処宜敷示談熟知相成候様取計下され候との事に付、右同人ども義夫々意顕を述べ来り、且つ中村丙午は、別紙の意顕書差廻し候義に有之、依つて、再三集会の末決定申し候訳は、
 嚮に三渓報国社基本に取除き候地を相廃し、更に其地十箇の三分地を分ち十弐人にて開拓致し、其余七分地は、其他十四人にて開拓するの名義を以て、則ち地元人民に開墾致させ候はゞ一同異論之有る間敷より、則ち之を衆議に附し候処双方納得異論無く決定致し候に付、該約定書仮に取換に相成候義に御座候。加ふるに藤川の中村丙午へ別に依頼の件これ有る義は、報国社設立已来昨十三年一月末より八月迄に、五拾有余円の不債を生じ候に付、此義に当惑致し候、何卒双方にて償ひ下され候はゞ、決して後日異議申す間敷との事に付、止むを得ず双方より此不債を償ひ、則ち中村丙午より証書取置き、其他の諸費用など悉く立会勘定相済み一同熟知、開拓着手の事に相成候間、私共も昨十三年十一月中より上野村その外三村へも両数人雇い入れ、開墾着手に相成り、夫より引続き、本年四月中迄に私共分割取開可き三分之箇所成功の処へ、右藤川三渓最前依頼候義を反復破希し、
 地元上野村人を煽動し苦情が間敷く訴えられ候義甚だ迷惑至極に御座候。
 元来上野村に限り素より苦情唱し居候者ならば、今日縦令三分地成の成功は遂げ申さざる義と存じ候。然るに、開墾着手の際は、決して苦情抔これ無く、今数月を経過し、私共開墾成功の場合へ三渓と倶に苦情申し出られ候ては、実に困難至極に存じ奉り候。
 何卒右御賢察の上、藤川并に地元上野村へ厳しく御説諭成し下され度く、此段上申旁々願上奉り候。以上。(原文のまま)
 
 以上の文書で明かなように、紛争の中心人物は、藤川三渓である。彼は開墾申請人の約定を廃棄し、上野村(長柄町上野)の人々を煽動し(この内容は資料乏しく明かではない)、苦情を申し立て、開墾払下げ地を要求する訴えを起したので、二六人が、困って県に上申書を出したものである。
 ところで、その約定書というのは、藤川三渓が、申請人岡本監輔、成島畯造、中村丙午などを通じて、「自分はこの土地には望みをもっていないので、申請人の相談で開墾はきめてもらいたい。ただ、明治一三年一月より八月まで、報国社設立のため、五〇余金の借金ができたので、それを償ってもらいたい。」との申出に対し、二六人が、五〇円とその外の諸費用を出し、解決をみたので、両者の間に取交わした証書のことである。
 さて、この約定書が成立する迄の三渓の行動をみてみよう。
 彼は、開墾地払下げについて一二人(二六人中の)に依頼され、県庁との交渉に当ったが、払下げ地の三分の一を、彼が作った報国社という結社の開墾地であるとし、一二人の申請人には少しも相談せず、残りの地所も彼一人の考えで地元民に開拓させようとし、その上、県庁への交渉費用一切は二六人に支出させていた。怒った申請人代表が、県庁に伺いを立てたところ、それは三渓一人に貸下げたものではなく二六人に貸下げたものであるとの口達があったため、三渓に、そのことを伝え、談判した結果、右の約定書となったわけである。
 これで、一件落着と思い、二六人は、一二人が一〇分の三、一四人が一〇分の七の開墾地の開墾を分担し、明治一四年四月には、ほぼ成功するという段階になって、上野村民の暴動となったのである。
 さて以上の経過を辿って考えてみると、三渓の行動はまことに不審である。一旦、その土地はいりませんと約定しておきながら、また前言を翻えして、上野村民を使って苦情を申し立てたのである。この間の事情を明かにする文書はいまだ発見せられずその委細が不明であるのが残念であるが、紛争は、此の後一〇年も長く続いている。
 この頃、味庄の柴崎民五郎は、この紛争の解決を、岡本監輔に相談したものとみえ、明治一五年(一九四〇)一〇月四日付で監輔から、次のような返事の書翰を受取っている。
 
  「前略、上野村民暴動云々拝承候間、早速まかり出度存じ候へども、此の次の日曜後ならでは、何分六ツ敷御座候間御承知下され度、今般は、東金には構はず御地へまかり出べく存じ奉り候。もつとも、是は県令へ申し入れ、夫より藤川を説諭有る様改めず候ては相成る間敷と存じ奉り候。上野の頑固なる不条理千万と存じ候へども、到底よほど屈して掛らずば、いつまでも難題を唱へられ候か。情実委曲県令へ相訴有て然るべくと存じ奉り候。此事兼て牧田奉作、健二郎氏などにお願い致され候義に有候間、小生まかり出候迄同人等に依頼ありて然るべしと存じ奉り候。何分一度に埓明け申間敷義に存じ奉り候也。
   十月四日
     民五郎君 座有。

 
 この中の「上野村民暴動」とは言う迄もなく、前記三渓の事件をさしている。岡本監輔は、私塾「励業学舎々主」で、三渓もその教師として岡本と一しょに長柄に来たのである。(長柄町史五三六ページ「励業学舎」の項参照)。
 監輔は、此の事件は、なかなか一筋なわでは解決がむずかしく「一度に埓(らち)明ける」即ち解決させることは困難であると言っている。
 結局、藤川三渓が明治二四年七月に歿して後一切が解消し、開拓が行なわれ、明治三五年に完了したのである。
 尚、「東金には構わず」とあるが、この頃三渓は、東金に住んだのではないかと思われる。
 紛争の概要は、以上の如くであるが、次に三渓について今少し略歴を記しておく。『大日本歴史辞典』には三渓について、次の如く記している。

 
  フジカワサンケイ 藤川三渓 (一八一八―一八九一) 高松藩士。木田郡三谷村の儒医。名忠猷、通称求馬、後能登、将監と改め、三渓と号す。勤王の志厚く西洋式銃陣の方を用ひて竜虎隊を組織し、遂に嫌疑を以て入獄す。在囚中著書を事とし維新後、修史局御用係たり、辞して在郷子弟を教授し、明治二十四年七月歿、年七十四。贈正五位。『維新実記』二百巻を著はす。(贈位諸賢伝)
 
 ここには記されていないが、前記『藤川三渓伝』には捕鯨事業や開墾事業に力を入れたことを記している。即ち伝記から抄出して見よう。
     「開墾を実践す」
  三渓が単に机上の空論家に非ずして、自ら進んで実地にその信ずるところを行はうとする意図のあつたことは、捕鯨事業に手を染めた一事でも知られるが、荒蕪地開墾も機会あればこれを実行したのである。

青山ケ原で甘蔗栽培
即ち、明治初年、東京の青山ケ原を開墾して、讃岐から求めた甘蔗を栽培、大いに好成績を挙げたが、関東地方には甘蔗が出来ぬといふことを聞いてゐた三渓は、非常に喜んで、早速製糖技師にこれを精製せしめたところ、果して優良品が出来たので、先づ宮内省に献じ、次いで大阪共進会にもこれを出品して褒状を得た。この甘蔗栽培は砂糖の輸入防遏の目的で行つたものといはれる。

千葉県下に荒蕪地を開く
次いで明治十三年、予ねて全国統計一班を調べて、わが国の山林及び荒蕪地は全土の六分五を占め、耕地は僅かに一分に過ぎざることを知り、富国の策として荒蕪地を開いて地力を増すことの急務なるを痛感し、官に請ふて、千葉県の山辺、武射、千葉、市原の四郡十三ケ村の荒蕪地約百五十町歩を開墾した記録もある。

免囚を雇つて開墾に従事す
越えて明治十六年には、この千葉県山辺郡大和田村へ移つて報国社といふものを興し、刑余者を労働者に雇つて、これをいたはりつゝ不毛の地三百八十町歩を開墾した。免囚保護どころか、刑余者といへば一概に白眼視されたこの当時、三渓のこの行為は、又彼が人情味ある半面を物語るものであらう。この開墾地管理は、主として夫人辰子の役となつたが、地元に悶着でも起きると、屡々東京との間を徒歩で往復折衝し、血の滲むやうな苦労を重ねたと伝へられる。

  故に開拓地論にせよ、勧農論にせよ、体験から生れた主張であつて、三渓の唱ふる論策の単に理論に非ざる、一以て十を推すべきであらう。
 
 これをみると、三渓は、相当な人物であって、勤王の志厚く、著書も多く、すぐれた意見をもっていた。特に、荒蕪地の開拓については、優れた考えをもっていた事となっている。
 「報国社」というのも、この伝記の記述で明かになったが、その設立年は、前記資料によると、明治一三年頃であり、一六年ではない。
 また「千葉県の山武、武射、千葉、市原の四郡十三ケ村の荒蕪地約百五十町歩を開墾した記録もある。」と言うが、長柄が記してないのは、紛争のためであろうか。
 何れにせよ、彼の開拓論には、耳を傾くべき点はあるが、本町においての評価は、全く、芳しいものではなかったわけで、いわゆる伝記とよばれるものが美化して真相に触れていないということを示す好例ではなかろうか。