その一つは、谷合いにある大小の堰である。山間に土手を築いて、ここに雨水を溜め、必要な時に、田に灌漑をしたのである。勿論、水田の灌漑には、すべての耕地に水が届き、不用になれば排水するための用水路、排水路が必要となる。それを造る労力や費用は莫大なものだった。例えば大野善八家文書によると「立鳥東谷溜池新築ハ明治一三年四月一〇日。新築費五百五〇円ヲ入費ス、村持山林二ケ所、此新築費ニ売払ヒ。」とあり、また、「手樋ノ改正―泉谷ヨリ切通シ水門迄ノ水路改正シタルハ明治三〇年四月、コノ費用四〇円余土方江相渡シ」と記されているが、その他の記録は殆んど残っていない。また、堰を維持するために「堰ぶち」として米を供出し、工事の費用に充て、「堰普請」は、毎年欠かさず行っていた。堰のないところでも、清水や掘抜井戸の利用できるところで、それを利用した。
つい最近まで、郷土の各村々には、極めて詳細な水路図が作られていて、その図は部落の役員が大切に保管し、役員から役員へと引継がれてきたものである。その図には、水源の位置と面積、用水、排水路とその幅や長さ、灌水する順序などが細かく記されている。
旧日吉村の一部の水路図を次に示してみよう。網の目のような水路、そのすべての幅や長さ、灌水する水田などが記されている。即ち、一図は、徳増部落全体の水路図、二図は、小榎本のごく一部の水路の様子。三図は、水路の詳細な面積を示したもの。そして更に、どちらから灌水し、どこへ排水するかまできちんときめられ、それを勝手に変更することはできなかった。
(一図)徳増部落水路図
(二図)小榎本部落水路図
(三図)小榎本部落水路求積図
さて、水路は、このように大切なものであるから、勝手に変更したり、けずり取ったりすることは絶対にできなかっただけでなく、時々調査も行なわれている。明治三四年(一九〇一)一一月、長柄村では、用水、排水溝の調査を行ったが、その届書と集計表は、次のようになっていた。
用水排水路届 長柄村(役場資料)
一 舟木村
○用水路
字ヲチ 五百四間 巾二尺
此坪数 一七坪八合三勺
字大滝谷ヨリヲチ迄 百四拾六間 巾二尺
此坪数四拾八坪一合八勺
字大滝谷ヨリ池之谷迄 七拾五間 巾二尺
此坪数二拾四坪七合五勺
字八反目ヨリ字ヤギヤ迄七拾七間 巾二尺
此坪数二拾四坪四合一勺
字セキヨリ榎木戸迄 六百弐拾七間巾三尺
此坪数三百拾三坪五合
字セキヨリ字作田迄 壱百五拾間 巾二尺
此坪数四拾九坪五合
○排水路
字池ノ谷ヨリヲチ迄 二百九拾弐間 巾三尺
此坪数百四拾六坪弐合五勺
字小谷ヨリヤギヤ 百六拾壱間 巾二尺
此坪数五拾参坪壱合五勺
字堂ノ前ヨリ榎木戸迄 二百五拾五間 巾三尺
此坪数百弐拾七坪五合
字木仏谷ヨリ榎木戸迄壱百七拾五間 巾三尺
此坪数八拾七坪五合
二 国府里
(用水)
字内谷ヨリ宮前迄二百壱間 巾三尺
此坪数三畝一〇歩
(放水)
字ネギヤシキ 百八十八間 巾三尺
此坪数三畝四歩
三 長柄山
字ナンバヨリ滝口マデ一〇七〇間(用水放水) 巾一間
(用水溜場二ケ所 土俵三俵留)
四 上野
用水 弐百五拾八間 三百八拾七坪 巾九尺
放水 千六百七拾弐間 六百弐拾六坪
五 六地蔵
放水六ケ所 三千八百参拾四間 巾三尺
字五里 百間、中郷百拾参間
下郷 弐百五拾弐間
字北山五拾四間五分 字勝古沢百拾六間五分
字皿木沢 六拾六間五分
字砂坂四百四拾八間 字岩之沢百拾四間五分
字地蔵面百九拾九間 字千袋四百四拾壱間
字瓜ケ作六拾八間 字辰之沢百拾五間
字榎戸百拾五間 字同羅多五百弐拾参間五分
字金糞弐百八間
六 山之郷
字勝古沢ヨリ深谷迄六百間 巾三尺
此坪 三百坪
字砂坂ヨリ失指迄 八百間 巾三尺
此坪数四百坪
字家ノ越ヨリ雨田迄千二百間 巾三尺
此坪 六百坪
字井戸沢ヨリ生板倉迄千三百間 巾三尺
此坪 六百五拾坪
七 中野台
用水 八百三拾七間
放水 八百三拾七間 巾三尺―一、五尺
此坪数六百七拾参坪
八 千代丸
字堀口 拾壱間 巾弐尺五寸
字火渡ヨリ清水前迄 四百八拾四間 巾六尺
字清水前 九拾弐間 巾四尺
字中嶋 百九拾七間 巾三尺
九 皿木
用水 百参拾五間(壱ケ所) 巾二尺
放水 百参拾五間 巾三尺
一〇 山根
用悪水路 字大和久九拾七間半 巾四尺
用水地堀之内川ヨリ堰ケ谷迄五百四間五分 巾三尺
用悪水路糀屋ヨリ下仲屋迄弐百拾四間 巾四尺
排水路下仲谷ヨリ上仲谷迄四百五拾六間 巾三尺
〃 堀之内ヨリ鎬坂迄三拾六間 巾二尺
〃 〃 大着迄二拾間 巾二尺
一一 味庄
用水 三ケ所 百七拾間
一 舟木村
○用水路
字ヲチ 五百四間 巾二尺
此坪数 一七坪八合三勺
字大滝谷ヨリヲチ迄 百四拾六間 巾二尺
此坪数四拾八坪一合八勺
字大滝谷ヨリ池之谷迄 七拾五間 巾二尺
此坪数二拾四坪七合五勺
字八反目ヨリ字ヤギヤ迄七拾七間 巾二尺
此坪数二拾四坪四合一勺
字セキヨリ榎木戸迄 六百弐拾七間巾三尺
此坪数三百拾三坪五合
字セキヨリ字作田迄 壱百五拾間 巾二尺
此坪数四拾九坪五合
○排水路
字池ノ谷ヨリヲチ迄 二百九拾弐間 巾三尺
此坪数百四拾六坪弐合五勺
字小谷ヨリヤギヤ 百六拾壱間 巾二尺
此坪数五拾参坪壱合五勺
字堂ノ前ヨリ榎木戸迄 二百五拾五間 巾三尺
此坪数百弐拾七坪五合
字木仏谷ヨリ榎木戸迄壱百七拾五間 巾三尺
此坪数八拾七坪五合
二 国府里
(用水)
字内谷ヨリ宮前迄二百壱間 巾三尺
此坪数三畝一〇歩
(放水)
字ネギヤシキ 百八十八間 巾三尺
此坪数三畝四歩
三 長柄山
字ナンバヨリ滝口マデ一〇七〇間(用水放水) 巾一間
(用水溜場二ケ所 土俵三俵留)
四 上野
用水 弐百五拾八間 三百八拾七坪 巾九尺
放水 千六百七拾弐間 六百弐拾六坪
五 六地蔵
放水六ケ所 三千八百参拾四間 巾三尺
字五里 百間、中郷百拾参間
下郷 弐百五拾弐間
字北山五拾四間五分 字勝古沢百拾六間五分
字皿木沢 六拾六間五分
字砂坂四百四拾八間 字岩之沢百拾四間五分
字地蔵面百九拾九間 字千袋四百四拾壱間
字瓜ケ作六拾八間 字辰之沢百拾五間
字榎戸百拾五間 字同羅多五百弐拾参間五分
字金糞弐百八間
六 山之郷
字勝古沢ヨリ深谷迄六百間 巾三尺
此坪 三百坪
字砂坂ヨリ失指迄 八百間 巾三尺
此坪数四百坪
字家ノ越ヨリ雨田迄千二百間 巾三尺
此坪 六百坪
字井戸沢ヨリ生板倉迄千三百間 巾三尺
此坪 六百五拾坪
七 中野台
用水 八百三拾七間
放水 八百三拾七間 巾三尺―一、五尺
此坪数六百七拾参坪
八 千代丸
字堀口 拾壱間 巾弐尺五寸
字火渡ヨリ清水前迄 四百八拾四間 巾六尺
字清水前 九拾弐間 巾四尺
字中嶋 百九拾七間 巾三尺
九 皿木
用水 百参拾五間(壱ケ所) 巾二尺
放水 百参拾五間 巾三尺
一〇 山根
用悪水路 字大和久九拾七間半 巾四尺
用水地堀之内川ヨリ堰ケ谷迄五百四間五分 巾三尺
用悪水路糀屋ヨリ下仲屋迄弐百拾四間 巾四尺
排水路下仲谷ヨリ上仲谷迄四百五拾六間 巾三尺
〃 堀之内ヨリ鎬坂迄三拾六間 巾二尺
〃 〃 大着迄二拾間 巾二尺
一一 味庄
用水 三ケ所 百七拾間
次の表をみると、溜池三六か所で面積八三九四坪となっているので、一か所平均の大きさは約二三三坪(八畝)堰・塀一八とあるのは、小川をせき止めた個所ではないかと思われる。次に、用水、排水用の水路であるが、両者合わせて総延長一七九〇三間で里程に換算すると八里一〇町二三間となる。これは当時の長柄村道路の総延長八里一五町三二間とほぼ同じ長さになる。人馬の通る道と水の通る道とが同じ長さであったということは、農民が水路を如何に重視していたかが伺えるのである。水路の幅は、大部分が三尺であるが広いところは九尺から六尺、狭いところは二尺となっているので、平均三尺として面積を出すと二町九反八畝(三ヘクタール)となる。現在この水路は、殆んど欠損したり、雑草の生い茂るにまかせ、顧る人は稀であるが、我々の祖先の努力の跡を思い起してほしいものである。
溜池 用水排水溝調 |
ケ所 | 面積 | 堰塀 | 溝渠 | 放水溝 | |
三六 | 八、三九四坪 | 一八 | 三二間 (五八米) | 二三ケ所三、七四五間 (六七七八米) | 三九ケ所一四、一五八間 (二五六二六米) |
部落 | 堰 | 塀 | 用水溝 | 放水溝 | 部落 | 堰 | 塀 | 用水溝 | 放水溝 | ||||
ケ所 | 延長 | ケ所 | 延長 | ケ所 | 延長 | ケ所 | 延長 | ||||||
力丸 | 二 | 三〇三間 | 上野 | 三 | 三五八 | 四 | 一、六七二 | ||||||
千代丸 | 一 | 二 | 二 | 二〇八 | 山之郷 | 四 | 三 九〇〇 | ||||||
山根 | 一 | 二 | 三 | 九八八 | 二 | 四四〇 | 六地蔵 | 六 | 三、八三四 | ||||
国府里 | 一 | 一 | 二 | 二〇一 | 二 | 一八八 | 長柄山 | 二 | 二 | 二七〇 | 二 | 八〇〇 | |
味庄 | 三 | 一 | 三 | 一七〇 | 六 | 四五八 | 皿木 | 二 | 一三五 | 三 | 六三五 | ||
舟木 | 二 | 二 | 六 | 一、一二九 | 四 | 八八三 | |||||||
中野台 | 二 | 八三七 | 二 | 八三七 | 計 | 八 | 一〇 | 二三 | 三、七四五 | 三九 | 一四、一五八 |
(明治三四年一一月) (長柄村役場) |
次に川(一宮川)沿いの村々では、川を堰止め、これを利用した。しかし、旱抜の年ほど、水量も少くなり、争が起ることもあったので、平素から境界をはっきりさせておくことが必要であった。その一例を記そう。
明治九年(一八七六)七月、高山村では、惣農代河野良平、今井勝三郎、用掛清田元吉三名の代表名で、小区役所へ境界願を提出した。それによると、「この川(一宮川上流)水は、昔から深沢村、笠森村、高山村三村で利用していたものであって、文政一三年(一八三〇)には、高山村で川水を切って古杭を調べ、新しく幅二間に杭を立て、境界をはっきりさせた。ところが、明治八年、把租改正のため、実地調査をして地図をつくり、政府へ差出すことになったので、三村で話し合いの上で地図をつくり差出そうとしたところ、笠森村は、川の中央から半分が笠森のものだと主張、単独で地図を作って提出してしまった。笠森村は、今まで何があっても知らぬふりをしていて今になって勝手なことは許せない。川は高山村のものであるので、役所でよく調べてほしい」というものであった。(清田光彦家文書)
当時としては重大な問題であったわけである。高山村だけでなく、一宮川流域の金谷、針ケ谷、徳増などでも、いろいろな悩みをもっていたのである。現在のように揚水機械の発達していなかった明治の時代には、川水はあっても利用できないところも多かったし、地盤を整備しなければ、水を流すことは不可能であった。
そこで、明治の時代は、溜池や堰を中心とした灌漑にたよる稲作時代とも言うことが出来よう。従って、この時代の農民は、水を中心にすべてのことに協力、共同してゆく以外生きる道はなかったといっても過言ではあるまい。