徳増揚水組合

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 (ア) 組合設立の由来
 徳増区の原地区は、新堀、若宮、象ケ崎、乱塔場、永町、堺田、河間、水天の八字に分かれ、水田面積は一七町歩(一七ヘクタール)に及んでいるが、灌漑用の溜池もなく、天水と立鳥水(針ケ谷区泉谷の水を立鳥区で管理し長富区に給水した余り水)に頼っていたため(一宮川流域にありながら、揚水施設がなかった)、昔からしばしば植付不能や枯死の旱宮をうけていた。明治三七・八年(一九〇四―五)日露戦争の際は、二年に亘り激しい旱害に見舞われ、一面不毛の地と化し、僅かに蕎麦を栽培して食糧とする惨状を呈した。
 その時、大地主平川歓次(原地区三分の一所有)が中心となり、関係地主が一丸となって、揚水組合(9)を結成した。勿論耕地整理法によるものではない。揚水施設は、当時としては誠に珍らしいもので、煉瓦造りの汽鑵庫に鉄製の煙突を建て、東京から買ってきた一〇馬力の蒸気喞筒を仕掛け、通称新堀川から揚水を始めたのである。汽笛の吹鳴が隣村にひびき、沢山な見物人が集まったとのことである。
 しかし、何分機械は中古品で、燃料の石炭が得られず、薪炭を代用していたため、数時間は勢よく揚水が出来たが、それ以上は永続きせず、全耕地を潤すことは出来なかったという。そんな状態であったから、四~五年後には停止されたが、本町でポンプを用いた最初であり、その着想は、高く評価されたのである。

 (イ) 組合の内容
 この組合は、明治四〇年(一九〇七)一月二二日に結成された。規約によると、組合員は三〇名で、株式会社千葉県農工銀行より千九百円を借入れ、揚水機を設置する。借入金は五か年間に償還する。揚水時期は五月一五日より始めることを原則とし、給水順序は、新堀→乱塔場→象ケ崎とし、その他は、其の年の状況により委員会に諮って平等に分水する等細かにめられている。規約は註(9)に掲げておく。

 (ウ) 其の後の変遷
 大正一五年(一九二六)原耕地の耕作者は、明治時代の蒸気ポンプ揚水場の跡に、再び石油発動機による一〇馬力の揚水設備を造り、好成績を続けてきた。その後、日支事変などの影響で、石油の供給が困難となったので、昭和一五年(一九四〇)から電力による揚水施設に変えて今日に至っている。
 その後、この耕地は、昭和四七年から、大規模な土地改良(農業構造改善事業)が行なわれたが、それについては項を改めて述べることにする。