小榎本土地改良

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 (ア) 揚水施設
 昭和七年(一九三二)から八年にかけての本県の大旱抜は、農民に灌漑施設の重要性を改めて認識させた。昭和八年の旱害状況をみると「六月上旬ニ於テ既ニ用水不足シ、植付困難ヲ訴ヘ中下旬ニ至リ被害益々甚シク、七月ニ入ルモ驟雨ダニナク農民ノ不安愈々募リ、農会其ノ他ノ斡旋ニヨル小型揚水機風車水車ノ応急施設ヲ始メ四隣水源地ヨリ分水ヲ行フ等必死ノ努力ニヨリ救済セラルヽモノ尠シトセザルモ、全面的匡救ノ実ヲ奉グルニ至ラズ、消防ポンプモ出動シ雨乞ヒモ随所ニ行ハレタリ」(干害地救済委員会記録)(10)とあるが、効果なく、長生、山武の被害は最も甚だしかった。
 その内容は前表の通りであった。そこで国府里や針ケ谷では、これを機会に永久施設を作ったが、その他の部落でも、臨時に揚水施設をして旱抜を防いだところも多かった。小榎本では、一四戸の農家が共同して、茂原の岩瀬鉄工所から六馬力の発動機と四吋の揚水ポンプを八〇円で借りうけ、日吉川から揚水灌漑をした。その費用は総額九九円七二銭で、農家収穫米一俵当一円六〇銭の割合で負担し支払った。それでもこれによって大きな効果をあげた。(註(11))
植付不能七割以上減収五割以上五割以下三割
長生二、五八二・五町一、六四〇・四一、三二二・五一、三二二・五六、八六七・九
山武二、六一七・〇町六八五・〇一、六二〇・〇一、六二〇・〇六、五四二・〇

 その後、昭和二〇年には、電力による揚水機を施設して灌漑の便を図ってきた。
(イ) 土地改良区の設立
 昭和三三年(一九四四)前田政之丞を初代理事長として土地改良区(土地改良法による)を設立、農業経営の合理化と農業生産力の発展を目的に、二か年間で土地改良事業を行った。
 対象面積は二〇町一畝二〇歩(約二〇ヘクタール)で、内水田一五町五反四畝二九歩、畑四町二反六畝二六歩、山林一反九畝二五歩で、この土地に、区画整理、灌漑排水施設、換地処分、農業用道路、災害復旧保全のための施設を施し、耕地の集団化と二毛作地帯を実現して、農家経済の発展を図ろうとするための工事である。工事費は、県補助金として、三五年に二万一千五百七六円、三六年に一万九千四百八八円をうけている。その後四三年には用水事業を行った。現在理事長は渡辺泰之で、本町では唯一の土地改良法による土地改良区である。(註(12))