金谷耕地整理組合

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 金谷は、水上村で最も早くから土地改良を行ったところであるが、その歴史は、『長柄町史』の「用水」に詳しく記されているので、ここでは重複をさけ、昭和八年、金谷区民が村に対し戸数割減額の陳情をした申請書(13)を掲げておく。これによって、金谷区民の水田灌漑に対する長い間の努力や苦心がまざまざと伺うことができるからである。
 
  「金谷区ハ往古ヨリ、水利ノ便著シク悪シク、年々旱害ニヨル稲作ノ被害甚大ナリシガ故ニ、今ヨリ約二百五〇年前、代官長嶋氏ノ救済事業トシテ、現時ノ所有地タル刑部区字南沢地先ニ水門ヲ設置シ、約十町(七八〇米)ノ水路ヲ穿チテ金谷耕地ノ灌漑ヲ計リテ現今ニ至レリ。而シテ之レガ維持管理ノ方法ハ、往古ハ、代官地頭地主ト共ニ適当ナル歩合ノ負担ニヨリ来ルヲ、維新後ハ配水区域ノ少キ地区一一町歩(一一ヘクタール)ノ地主ノミノ負担ニ依リ、年々水番給米其他ヲ合シ、約米十俵ト維持費約金百円ヲ以テ管理ヲナシ、一朝大改修ニ際シテハ、実ニ七百円内外ノ多額費用ヲ要シタルモ、漸ク木製ノ不完全ナガラモ堰留ヲナシ来タルモ、不況ノ為ト区域狭隘トニヨリ、到底完全ナル堰留ヲナスコト能ハズ、年々歳々旱害ヲ蒙リタルコト枚挙ニ遑アラズ。地主ハ之ガ救済ニ日夜憂慮ノ折柄、幸ニモ不況打開タル農村振興救済策トシテ、政府ハ、臨時匡救耕地拡張改良農業土木小用排水事業ニ補助金ヲ交付セラルルコトヲ発表セラルヽヤ、之ノ恩典ニ浴シ事業施行ノ衆議ヲ以テ可決シ、従来ノ金谷地区ニ刑部区一部字吹谷地区ヲ拡張シ、耕地整理組合組織ヲ出願シ、次イデ組合認可ヲ得、昭和七年一一月三〇日組合設立総会ヲ開キ、分賦負担及起債並ニ匡救補助費等ニヨリ、実ニ壱千八百有余円ヲ投ジテ以テ頭首工及護岸溝渠改修工事ヲ竣工シタリ。然リト雖モ、加フルニ、八年度計画ニハ頭首工内壁タル護岸工事ニ尚数百円ヲ投ジテ竣工ナサザルヲ得ザルノ現況ニ遭遇セリ。而シテ之レガ年次償還金及維持管理費ニ年額約三百円以上支出スルハ、実ニ多額過重ニシテ塗炭ノ困苦ニ堪ザルナリ……」
 
と述べられている。昭和八年(一九三三)の米価が、一石(一五〇キロ)あたり約二一円であったので、三〇〇円では、玄米約一五石の代金に相当する高額である。
 尚、南沢堰は、刑部区稲塚部落に属していたので、大正二年三月、両部落の間に「互換契約」というものを結び向う一〇年間、堰や道路の修繕は稲塚谷で行い、その代償として、毎年四月二〇日迄に上米四斗(六〇キロ)を金谷から納めるというものであった。その後、この契約は昭和八年まで続いたが、昭和一〇年一〇月一三日、刑部区と「和協互換契約」を結び、刑部区に上米壱俵を納めてきた。
 しかし、金谷区では、昭和二三年三月から、別の位置に揚水施設と用水路の工事を行い同二五年五月に竣工をみたので、刑部との関係はなくなった。この土地改良費は、県補助金七八万八千円、地元負担九万九千二百円で、受益面積は、一三・二ヘクタールに及んでいる。
 昭和五五年金谷区では、農業の近代化をめざし、農業構造改善事業に取組んでいる。