このように、化学肥料が用いられるようになったのは、化学工業の発展に伴い、その価格が非常に安くなってきたためである。大正の初めは、同じ重量の玄米と硫安の価格を較べると、硫安の方が常に二、三割高かった。それが、昭和三〇年頃三分の一になり、戦後は一〇分の一以下になった。そして米の生産費に占める肥料費は、昭和三五年には、三七%であったが、五三年には、一五%になっている。もはや化学肥料は、「金肥」という昔の概念から離れてきた。
さて、ふり返って、明治以来、戦前の状態はどうであっただろうか。
江戸から明治の時代は、自給肥料中心の時代と言えよう。水田の肥料は、若々しい野草や木の若芽を田の泥の中に押しこむ「カツチヤキ」といわれるものと、下肥(しもごえ)(人糞尿)であった。それが、明治の後期から馬耕が始まり、窒素の投入が収穫を格段に上げることから、いわゆる「金肥」が登場する。それは、魚肥であり、油カスであった。日露戦後は、満州から「豆板」とよばれた大豆粕が輸入されるが、まさに金肥といわれるように、非常に高価なものであった。そこで農民は、さまざまな努力で堆肥をつくり、肥料の主体としてきた。そして、堆肥の時代は、戦時中から戦後、昭和三〇年頃までつづくのである。
大正から昭和一〇年すぎまでは、施肥改善時代といわれ、堆肥のほかに、金肥といわれる化学肥料が取入れられてくる。大豆粕は、大正中期がピークで、その後、過燐酸石灰、硫安、窒素、加里肥料が使われるようになってくる。
昭和一五年頃から統制時代に入り、戦後まで、化学肥料は不足し、再び堆肥などの自給肥料へ逆もどりの状態になったのである。
さて、このような肥料の歴史を、「千葉県の稲作栽培」(農地課)には、「施肥法の変遷」として、次のようにまとめられている。言う迄もなく、郷土の肥料の歴史もまた、このような県の指導の下で展開されたものであるので、これを参考としながら僅かな資料をもとに郷土の姿を眺めてみよう。