明治―自給肥料の時代

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江戸時代から、下肥(しもごえ)(糞尿)、馬ふん、干草などが重要な肥料であったことは、前編、農業生産――肥料の中にも述べられているが、明治から大正にかけても、その重要性は変っていなかった。現代では都会だけでなく農村でも人糞尿の処理について頭を悩ましているが、化学肥料のなかった明治時代から、農民にとっては貴重なものであって、代金を払って汲取りをし、肥溜に保管して畑や田の肥料にしていたのは、つい最近までのことである。だから都会の糞尿を近郊農民は、なるべく安く手に入れようと考えた。昭和五〇年度直木賞に選ばれた有明夏夫氏の『大浪花諸人往来』の中にある「尻無川の黄金騒動」という小説は、明治初年、大阪の屎(し)尿が、近郊農民にどう処理されていたかを描いて実に面白い。その概要はこうである。
 「明治初年、大阪三郷の汲取りはすべて、屎尿取締会所という役所で支配し、農民に売っていた。その値段は、九、一〇、一一月の米一石のねだんの平均を出し、この七割が、肥やし百荷分の値段となり、ほぼ三円五〇銭位に当る。人間一人が一年間に出す屎尿の量は、ほぼ五荷(か)、ねだんで一八銭となる。大阪の人口は三〇万人、一人一八銭として、年五万四千円となり、これが会所の収入になる。ところが、明治五年(一八七二)ごろから、会所の収入がめっきり減った。調べてみると、会所の鑑札を持っていないもぐりの百姓達が、直接、町民と交渉して、会所より高い金で買取ってゆく。特に明治五年から出来た、沢山な小学校の屎尿は、やはり闇取引で、一〇荷四〇銭で売られていった。そして、小学校では、これが当時学校運営の大きなかくし財源になっていたという。だから、会所からいくら催促しても学校側は承知しなかった。その後、大阪では学校の屎尿代はすべて学校経費に組み入れられることになる。」
 どうも臭い話しであるが、郷土でも、学校の汲取りは、特定の村民が当っている所が多かった。今長南町今泉の宮崎重明家には私立上埴生学館(現長生高校の前身。当時今泉にあった)の「明治二五年度下肥(しひごえ)通帳」が保存されているが、それには一八荷のねだんが一円九六銭二厘と記されている。また、個人の家のものは、自家肥料に使い、不足分は町まで肥桶を車に積んで汲取りにゆく姿が至る処で見られたのである。
金肥とまで言われた過燐酸石灰は、明治三〇年代からポツポツ入ってくる。四四年一月、東京府信用購買組合連合会々長加納久宣から、長柄村農会に届いた、(1)「人造肥料連合購売ノ件」という通知文をみると、肥料共同購入をすすめているのであるが、その前文に「本会ハ去ル四一年以来人造肥料ノ連合購売ヲ斡旋(あっせん)シ、其ノ区域ハ一府九県ノ広キニ亘リ是ガ実施ハ既ニ四回ニ及ビ候得共、其ノ購売額ハ僅カニ五六万叺(かます)ノ少額ニ過ギズ……」とあり、その原因が、価額が高いことによるためであるから、価格を安くするので、まとめて注文してほしいとあり、値段表を示している。
 どの位注文したかは明かではないが、この頃から、急速に使用が多くなってゆく。尚大豆粕や米糠、干鰮なども使用されている。
 
種類水溶成分量目価額
壱号過燐酸百分ノ一五一〇貫目入九二銭
強過燐酸百分ノ二〇同 右一円五銭