昭和一四年(一九三九)から二五年までは戦争の影響で、他の物資と同様、肥料の統制が行なわれた。そのため、堆肥や緑肥の自給肥料が奨励され、化学肥料の施肥方法も研究されているが、量が少いので、米の収量の低下は免がれなかった。
昭和二一年紫雲英(れんげ)の作付反別(4)をみると、長柄村六五反(六五〇アール)日吉村三〇反水上村四〇反となっていて三村合計では長生郡六五〇反の約二割に当っている。
堆肥の造製にも年々力を入れ、日吉村では、昭和二六・七年と堆肥増産競技会(5)を催している。その記録によると、二六年には、七五人が参加、翌二七年には、六八人で、生産量は六七五九七貫(二五三四八八キロ)に及んでいる。詳細な記録は、註5に掲げておく。