明治政府は、昔から行われていた虫追い行事のような村人が総出で鐘大鼓をならし村境まで虫送りをする迷信的な農作物害虫の駆除に代る近代的な駆除方法を奨励した。本県では明治一九年(一八八六)田圃害虫予防規則を定め、病害虫対策を重要施策として進めてきた。しかし、作物病理についての知識の低さや、駆除農薬のない時代では、螟虫卵を採取したり、病葉や穂を切り取ったりする程度を出なかった。
明治三五年(一九〇二)長柄村では、「害虫駆除組合」(1)を結成して、全村一致これに当ることにした。この規約をみると、長柄村を三六組に分け、各組に組長他二名の役員をおき、組合員の活動を厳しく監視し、その成果は郡長まで報告することにしている。そして組員中駆除を怠るものあれば、罰則を適用した。駆除の方法については、模範標準を示して、それに従うよう強制している。
そして、明治三七年(一九〇四)以降、害虫駆除予防に対する通牒はますます頻繁となる。中でも注目すべきことは、明治三六年から学童に苗代螟卵塊採集を行なわせたことである。日吉小学校沿革誌によると「明治三六年五月一三日・螟卵塊採集についての郡達があったので、五月二〇日より、六月八日まで村内を二回巡回五〇九三個採集。一個一厘に付五円九銭三厘、半紙購入生徒へ配布す」とある。長柄小学校でも六月二四日に行い、総数三万四千百二四個採集、代金六八円六四銭八厘、人員一五八名とある。(2)水上小学校では、高山大庭方面と刑部金谷方面とに分けて実施、成果をあげたという。この行事は以後終戦まで続けられたのである。