誘蛾灯

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次に大正から昭和期の状態はどうであったか。明治時代と同じように、村ぐるみの人海戦術に頼る以外、科学的な方法はみつからなかったというのが実態で、強いてあげるならば、苗代に誘蛾灯を備えたり、除虫菊加用石油乳剤の散布が取上げられ、多少改良が加えられた程度で、長い間自然とのたたかいが続いたわけである。右のうち誘蛾灯の設置については、比較的早く、明治三九年三月一九日付で県農会から町村農会に対し、次のような通牒(3)が出されている。
 
  「稲田害虫発生ノ初期ニ於テ予察誘蛾灯ヲ実施シ其ノ状況及ビ多寡等ヲ予知スルハ駆除施行上最モ緊要ノコトト思考候条左ノ手続ニヨリ各町村農会挙ゲテ実施セラルル様致シ度右通牒候也」
 
設置手続については
 
 第一項 町村農会ハ螟虫ヲ主トシ青虫、塵浮子等常ニ発生多キ苗代其他便宜ノ場所ヲ撰ミ少クトモ一箇所以上ニ予察誘蛾灯ヲ点スルモノトス
 第二項 点灯期間ハ螟虫発生ノ前後ヲ通ジテ一五日間トシ、其ノ期日ハ郡農会ヨリ予メ之ヲ指示スルモノトス
 第三項 町村農会ハ実施ノ日ヨリ五日毎ニ左ノ書式ニ依リ製表シ其翌日限リ郡農会ヘ報告スルモノトス但シ発生夥多ナリト認ムル時ハ臨時急報スベシ(以下略ス)

 
 これによって、郷土にも誘蛾灯が設置されたことは、云う迄もない。例えば、明治四二年三月一三日大和久忠作(道脇寺)日記によれば、「宮沢重五郎立寄申し、吉太郎方へ集会。夕餓灯(ママ)調製一五日郡衛及役場より検査に来る由……」とあり、一五日には「午后三時より石太郎宅に集り郡農会書記鳥海常三郎元上茂原生、目下中善寺の住人及岡倉弘同伴誘蛾灯検査のため出張訓示あり。五時半帰る……」と、誘蛾灯のことを記している。