明治時代に作られた稲の品種を調べてみると、大正初年の調査で千余種もあったという。(1)どうして、そんなに多くの品種が作られていたかというと、その原因は、江戸時代から盛んに行なわれていた神社仏閣へのお詣りの旅にあると樋口清之教授はいっている。(2)例えば、農民がお伊勢まいりにゆくと、もの知り的な情報以外に、農業のいろいろな作物の品種を集めてくる。松阪(三重県)で綿の種をもらって帰る、たやすく誰でももらうことが出来た。松阪木綿が日本中に急速に広がったのは、伊勢参宮が盛だったからである。稲の種類にも「伊勢」とか「瑞穂」とか、神社に関する名前が多い。それは、伊勢参宮のときもらった種をまいたらうまくいったので名づけたわけである。七月中旬頃から出羽三山へも盛んにお参りしたのでそこから又農作物の品種を集めたり、情報交換も行ったのであろう。秋田―岩手―宮城―福島などと何日もかかって歩く旅は、農民にとっては、農事視察旅行のようなものである。農民は、とにかくよいという品種をもらってきて植えてみたり又こちらからも持参したであろう。
今一つ農作物の情報や品種改良の情報をもたらしたのは、富山や奈良の売薬人だという。(3)こう考えると、郷土にたくさんな種類の稲が栽培されていたこともうなづけるわけである。ところで、多種多様な品種があると、どれがほんとうに自分達の土地に適するよい品種であるのか、見分けがつかなくなってくる。
そこで県内の各地の情報を交換し合えば、どんな品種がすぐれているののか、どんな栽培の仕方がよいのかも一般化されてくる。このため県では、明治一一年(一八七八)三月、農事通信という制度をつくり、各郡に農事通信員をおいて、そこから情報を求めたものを県庁でまとめてこれを公表し参考にさせた。
この制度の開始と前後して、農民がお互に知識技術や経験を交流する機運が全国的に高まったので、明治一四年(一八八一)農談会規則を定めて農民の農事改良に対する意欲を高めたので、県下にも農業団体が数多く作られた。そこで取上げられたことは、選種法、種子交換や病害虫防除が中心となっていた。