明治―人力中心の時代

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明治の始めから大正の初頃までは、人力中心の時代といえる。農機具では、整地用具として、鍬、鋤、収穫調整用具として金扱(こき)、土擢臼(するうす)、鎌、などがあったが、改良されたものといえば、明治の後期に回転稲扱(こき)機が発明されたことと、畜力耕が奨励され、いろいろな畜力用のすきが造られた位で郷土には普及をみなかった。大正元年(一九一二)長柄村の資料をみても、「牛馬耕なし」と報告されている。従って、作業に要する労力は大変なもので、特に耕起作業はひどかった。秋・稲刈がすむと「田打(うない)」と称するうない起し作業が行なわれるが、道具は、三本ないし四本歯の「万能鍬」を用いた。目方が三―四キロもあり、これで一株二株土を起すのであるから、作業量は、強い人で一日一〇アール位がせいぜいで、五アール位が普通であった。更に春になると、「下起(しもおこし)」をして、植える準備をした。
 一方、苗代づくりをして種を蒔き、田植がすむと三回も草取りをし、稲刈り脱穀調整という順序で進むのであるが、特に目立ったものとして、脱穀用具があげられよう。
 脱穀作業は、「稲こき」といって、二、三〇本ずつの稲穂を、「金扱(かなこぎ)」という金属の棒の間にはさんで、籾をこき落したのである。
 この「金扱」は、明治四三年(一九一〇)頃、鳥取県倉吉町が生産地であったという。これ以前は、歯が竹製のものが用いられていた。この道具は千歯稲扱機と呼んだが、これが考案される以前は、二本の箸のような棒の間にはさんで籾を落していたというから、この千歯の発明は、当時としては、すばらしく便利なものとして尊ばれたわけである。
 

(千歯稲扱機)

 さて、足踏による回転稲扱機の発明は、明治四四年(一九一一)三月のことである。発明者は、山口県防府市の福永一章という青年で、彼は会社へ通勤する途中、自転車のスポークに稲穂が当り、籾がとび散るのにヒントを得て製作に取組んだということである。(1)
 

(回転稲扱機)

 この機械が郷土にお目見えしたのは、大正四年(一九一五)頃である。日の出号、朝日号、みのり号等種々の型式で農家に宣伝され、忽ち普及した。明治の千歯にくらべれば、その作業能率はすばらしいもので、この足ぶみ脱穀機時代はその後昭和二〇年代まで続いたのである。
 籾の剥皮は「土擢臼(するす)」で行った。これは、酒樽を二つに切り、両方に粘土をつめ、中に樫の歯を押し込み、上下同じものを重ね合わせ、上から籾を入れ、手で廻す道具である。朝早くから夜まで三、四人で働いても、六、七俵しか出来なかった。「するす」にかけたものは「とおみ」で籾がらと米を分け、「千石」にかけて玄米の大きさをそろえ、四斗(六〇キロ)ずつ俵にいれて俵装して調整が終るのであるが、その労働も大へんなものだった。
 

(万能鍬)

 

(馬耕用の犁)

 

(手押稲刈機・初期)

 

(土擢臼)