大正―畜力中心の時代

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大正の初め頃から耕起作業の能率化への努力が払われ、牛馬の畜力利用が盛んになった。
 本県では、明治四四年五月、県農会が中心で、牛馬耕競技会を催し、広く県下の町村に普及を図った。しかし、始めは、犁(すき)の研究の不備や技術の幼稚なことが重なり思うようにゆかず、また農民はこの犁による耕起をみた時「なんだ、大蛇みたいに起して……」と嘲笑したという。その後、講習会や研究会が催され、効率のよいことと、牛馬の飼育の増加などによって急速に普及した。大正三年(一九一四)長柄村郷土誌によると、農家戸数五五〇戸中、馬二四〇頭、牛一五五頭が飼育され、耕作に利用されている。以後次第に増加し、昭和一〇年頃には「手うない」は殆んど見られないまでになった。そして、戦後、昭和二五年には長柄、日吉、水上三村の合計では、牛一〇八〇頭、馬二〇六頭と牛が多くはなったが、三〇年頃までは、牛馬が農家にとって欠くことのできない大切な生産手段になっていたのである。
 大正一二年(一九二三)県では、動力農機具補助規則を定め、石油やガソリンを動力とした脱穀機、籾すり機、揚水ポンプ等の使用をすすめたが、経済的に高価で、一般の農家には殆んど普及しなかった。
 そして動力による農機具が本格的に使われるようになったのは、終戦後昭和三〇年頃からのことである。
 

(整地用まんが)

 

(動力耕耘機)