耕起作業の機械化

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先づ最初に普及したのは、動力耕耘機であった。郷土にお目見えしたのは、昭和三〇年頃(一九五五)で、三五年には六五台、四〇年には七二七台と急ピッチですすんだ。何せ、この機械は、田打(たうない)、田こぎり(起した土をくだく作業)を動力で一挙に行い、一〇アール当り二時間ほどで終了するスピードである。
 しかし、昭和二〇年代最初のものは、キャタピラ式で、技術的に無理なところが多かった為か、しばしば故障も起ったので「しんしよう(身上)打ち壊し機械」などと陰口をたたかれたこともあった。その後、タイヤ式になり、砕土方法もクランク式からロータリー式へと改良された。だが、価格の点で、一般農家には購入できる金額でなかったので、共同購入が多かったが、次第に価格もさがり、能率もよくなって、急速に広まっていった。
 耕耘機がキャタピラ式からタイヤ式へと移り、次にでてきたのが「水田車輪」である。
 当時の新聞には「くろがねの馬」という見出しで耕耘機による代かき模様を報じたという。いくら機械化の時代といっても、泥田の中の代かきは、当分機械にはなるまいと思われていた。それが、水田車輪をつけた耕耘機で代かきが出来るのであるから、耕耘機の需要はますます多くなり、本町では、昭和五〇年一二三五台(表5)となっている。
 この台数の中には、農用トラクターが含まれている。トラクターは、四〇年台(一九六五)から登場する。この利点は、耕耘にも代かきにも、田に入らずに機械の上で運転できる。
 泥田の中を一日中機械を押して歩く代かきが機械の上でできることは、極めて大きな労力の節減につながる。その上作業能率も抜群で、耕耘機の場合、一日四、五〇アールだったものが、トラクターで行えば、一〇〇アールも楽々とできるのである。三本鍬の田打ち時代を考えると隔世の感がする。
 今一つあげたいのは、三〇年代に返るが、農用トレーラーの出現である。耕耘機は、その名の示すように耕耘以外は納屋で眠っている状態であったが、三〇年代半ばから、塔載馬力も大きくなり、荷物運搬に利用されるようになった。殊に細い農道でも田圃の中でも機動性があるので、牛馬にとって代り、四〇年頃には、牛馬の姿(表6)はめっきり少くなった。