米を一粒でも多くとりたい、ということから一貫して目ざされた目標は、単位面積当りの収量を高めることであった。明治から今日まで百余年の米づくりをみると、作付面積は、二五〇万ヘクタールから、最高の作付面積となった昭和四四年の三一〇万ヘクタールと二七%しか増えていないが、一〇アール当り収量は、一八四キロから昭和五三年の五三二キロまで三四六%と、実に三倍半の増加となっている。
もともと熱帯が原産である稲を、温帯の日本に適合させるだけでも大へんなのに、単位収量をできるだけ高めようとするには、できる限り細かいところに手間をかけなければならない。そこで農民は、丈夫な苗づくりや田植そのものの技術開発に心血を注いできたのである。
明治三〇年代(一八九七)から登場した稲作三要項(塩水撰・短冊苗代・正条植)の励行がそれである。
その後、終戦まで稲の栽培技術には大した変化がみられなかったが、昭和二五年(一九五〇)から普及され出した保温折衷苗代と本田早期栽培技術の開発によって、文字通り稲作革命をひきおこすことになった。そこで、次にこの二つの栽培技術の普及を中心に、郷土の稲作栽培のうつり変りを記してみよう。