(一) 塩水撰 これは、食塩水を用いて種籾を選別する方法で、明治一五年(一八八二)福岡県農学校教諭横井時敬が、イギリス・チャーチの小麦種子の試験を参考にして試みたのが最初であるという。(1)
しかし、食塩水やにがりによる選種は、当時に於て、各地で稀に行なわれていたようであるが、学問的に研究をすすめたのが横井で、彼は、その後も試験を重ね、一層確信を強め、明治三三年(一八九〇)頃から、一般に普及したのである。
(二) 短冊苗代 苗代の苗床を短冊型にし、間に溝をつけて管理に便ならしめたものである。この苗代のたしかな起源は明かではないが、『日本農業発達史・巻三』(中央公論社発行)には、次のように記されている。
「江戸時代からの苗代は、苗代一面に種をまく、平床水苗代であったが、その後、管理に都合がよいように、ふみ切り溝をつくるようになったのは、明治二三年(一八九〇)以降のことである。農学者酒匂常明は、明治二五年(一八九二)苗代についてふれ、苗代の形は、長さ適宜にて可なるも、幅は五尺位になすべし。然るときは、左右の畦畔より苗代の中央まで自由に手を伸ばし得るが故に、播種に厚薄なきのみならず稗或は雑草を抜き去り、或は害虫を駆る等其の便利甚だ多し」
と述べ、第一図Aの如き図を示している。
第1図A 酒匂常明が示した苗代(1892)
これをみると、短冊型ではあるが、苗床を低くして、溝ではなく畦を高く作るようになっている。ところが、翌二六年、楠原正三(佐賀県農事試験場)は、酒匂の説とは反対に
「……周囲並ニ各区画ノ間ニ幅一尺内外、深サ盤ニ達スル溝ヲ設ケ蒔床ヲ作ル。蒔床ハ凡ソ幅四尺、長サ適宜ニシテ……」
と第一図Bの如き図を掲げている。千葉県の老農峰幾太郎も、同三一年頃、楠原とほぼ同様の意見をもち、改良苗代と呼んでいた。
第1図B 楠原正三の示した改良苗代(1893)
これが、一般に普及するのは、三五年以後になる。
(三) 正条植
田植は、古来から植手が一列に並び、五・六株ずつ、後下がりに植えてゆくものであったが、正条植に類する考え方は、かなり古くからあったようである。『日本農業発達史』によって、その一・二をあげてみると、天保一一年(一八四〇)頃大原幽学が、千葉県香取郡中和村で奨励した縦縄(二本の縦縄の間に八株を植え、株間は八寸を標準とした)植があり。静岡県では、嘉永元年(一八四八)二宮尊徳門下の安居院義道が浜名郡で、「縄張定規植」又は「報徳植」とよんで唱導したが、これを行う者はごく僅かだったという。
明治に入り、鳥取県の中井太一郎は、田植定規を考案している。田植縄などもいろいろ工夫されるようになり、正条植が次第に行なわれるようになってくる。
明治三〇年(一八九七)江間定治郎は『米麦作論』で、はじめて正条植という呼称を用い、「規則正しく縦横共に一直線に植うるを要す。之を稲田の正条植と称す……」と述べている。
その後、同三一年頃、中井太一郎や、千葉県の峰幾太郎などによる正条植の唱導や、指導機関の奨励もあって、次第に普及を見るに至るのである。
明治政府は、農業技術の改良のため、明治二六年(一八九三)国立農事試験場を設立し、三三年頃から、県や郡や町村の農会組織を通じて、末端まで技術の普及を図ったが、その中心は、稲作三要項にあったのである。以下郷土の状況をみることとする。
長柄村上野の横山次郎作が、明治二八年に稲架乾燥法をすすめ、三二年頃には三要項の実践にとりくんでいる。その後、郷土の各村々には、稲作改良励行組合が組織された。明治三五年には、長柄山区、篠網区、三六年には徳増区など部落単位につくられたもので、その中心のねらいは稲作三要項の徹底にあった。
その普及活動の面については、「農業団体とその活動」の中に述べているので、ここでは、主として、その技術の一面をのべるに留めたい。さて、育苗技術のうち、塩水撰であるが、本県に於ては、明治三〇年代に九〇%の農家に普及し、現在でも行なわれているのである。その内容を長柄山区の規約(2)でみると、「水一斗(約一八リットル)に塩三―四升(約七・二リットル)を入れるか、苦塩水一斗に、五―八割の水を入れたものを用いること」とその方法を指示している。
その後種子消毒については、昭和初期病害虫予防のためホルマリン消毒が行なわれたが一部の篤農家にとどまり、昭和一五、六年頃からウスプルンによる消毒が行なわれるようになり、現在に及んでいる。
苗代様式については、従来、平床水苗代が主であったようであるが、雑草(ノビエ)病害虫の防除など管理を容易にするため、短冊にすることをすすめたもので、その大きさは、前記規約によると、「幅四尺(一・二米)長さ適宜のものとしている。この実行は遅々として進まず、いろいろな強制取締も行われた。
徳増区の規約(3)には、その取締について、「組合員ニシテ改良事項ニ着手セザルモノアルトキハ、委員長人夫ヲ雇ヒ、其ノ費用ヲ着手セザルヨリ徴収シ、改良事項ヲ実行スベシ(第一〇条)」と、委員長が人夫を雇って行なわせその費用は、実行しない家からとりたててよいというわけである。更に「組合員ニシテ短冊苗代及縄張植ヲナサザル者ハ害虫駆除ニ際シ、苗代又ハ植田ヲ駆除ノ為損傷害セラルルコトアルモ異議ヲ唱フルコトヲ得ズ、一組合ノ名誉ヲ毀損スト認ムル時ハ除名ス。(第一五条)」ときびしいものである。
正条植は、改良植又は、縄張植とも云われ、なわを用いて、たてよこ正方形に植える方法であるが、以上三つの方法は、大正、昭和初年から、つい最近まで行なわれていた。
ただ苗代については、大正四―五年(一九一六・七年)頃、農会により、短冊揚床式苗代の指導が行なわれたがその普及は進まずその七割以上が平床式苗代であった。昭和に入り、次第に揚床式に改善されていったが、戦後、苗代は、全く新しい様式をうみ出してゆくことになる。