地租改正

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前にも述べたが、明治政府が、農地に対して行った最も大きな改革は、地租改正であった。即ち明治四年(一八七一)九月に、田畑作物の自由が認められ、土地に合った作物が作れるようになった。ついで翌年二月には、田畑永代売買の禁が解かれ、七月には土地の所有者に地券を与え、その私的所有権を確認するに至った。このことは個人別に地租を課する第一段階であった。
 そして、明治六年七月二八日には、地租改正条令が布告され、ただちに基礎調査に取かかったが、大変な苦心の末、同一一年ほぼ完了をして、新地券が交付された。この間の事情は町史前編の地租改正と土地所有権の確立に詳しく記されているので、ここではふれないが、これによって、長い間行なわれていた物納制をやめて、金納制になったのである。
 この新しい制度は、一定の土地の価格を定め、それに対して地租が決ってくるので、土地の私的所有権は保障されている代りに、収穫の有無や米価の変動に係らず一定の税金を課せられることになった。
 たまたま、西南戦争をさかいとして、米価は下る一方となり、明治一三年(一八八〇)一石九円二八銭だった玄米は、同一七年には約半値に下ってしまった。そのうえ、税制整理に伴って、これまで国庫支給だった監獄費が地方費負担にされたり、土木費の国庫下渡金が廃止されたり、多くの事務が地方団体におしつけられたりした結果、地方税が急増し、それらの多くは、農民の肩にかかっていった。そこで、多くの農民は、地租その他の滞納によって強制処分をうけたものが、明治二三年頃には、三六万七千人にも上ったといわれ、また租税支払のため借金をして、土地を結局抵当にとられてしまうというはめになってしまった者も多かった。
 そして、明治五年(一八七二)には、小作地の全耕地に対する割合が二九%であったものが、同二〇年になると三九・三%と約一〇%も増加している。このようにして、自作農の土地喪失という現象がみられ、それが一部地主の手に集中し、地主と小作という二つの農民層に分化していったのである。
 明治三〇年(一八九七)頃になると米価は一応安定したので、地主の生活は次第に安定していったが、小作農の方は、旧来通り現物納でその率は少しも改正されることなく、昭和二〇年終戦まで続けられたので生活は苦しかった。小作料のことを「年貢(ぐ)」といって常に多少の差はあったが、江戸時代からの長い慣例で不思議にも思われなかったのである。
 
年度一石の米価
明治13
15
16
17
9円28銭
7 64 
5 49 
4 71 
(日本農民生活史による)

 
 なお地租改正によって農民は、貨幣を獲得しなければならなくなったので、農作物も、当然金にかえて高価にうれるものを作るようになった。明治二〇年頃は、総農産の二〇―三〇%が商品作物で占められ、主なものをあげると、米についで、実綿、養蚕、茶、菜種等が主要なものとなっていった。