日本の地主制については、いくつかの問題点があげられていた。例えば、高い小作料、不安定な耕作権、地主に対する小作人の身分的な従属感などがそれである。そのため、小作人の間には地主側に対し耕作権の安定化や小作料の減免の要求の動きがくすぶっていたが、大正九年(一九二〇)頃になると、それが小作争議や農民運動として大きく世の注目をひくようになってきた。しかし本町の旧三村にはこのような動きはみられず、日吉村には、大正二年頃「地主会」が結成されたが、その活動をみても、地主が小作農の発達を助けている部面が多い。
そこで政府は、大正九年農商務省に小作制度調査委員会を発足させ、農家経済調査と小作慣行調査を行った。そして大正一二年、自作農維持創設、小作制度改善の方策を諮問し、大正一五年(一九二六)になって漸く自作農創設(自作農創設維持補助規則)という、小作人にとって最も魅力ある制度をつくり、町村農会に対し小作人に対し積極的にこの制度を利用するよう指示した。その内容は、当時の小作地の二三分の一に当る一一万七千町歩を二五か年間に自作化するため、簡易保険積立金より四億円を低利貸出すというものであった。更に昭和一七年(一九四二)には、この案を整備拡充し、昭和一八年から七二億円を出し、一九七万町歩を自作化しようとする計画が立てられた。そこで、小作人の中には県からこの資金を借うけ、小作地を自作化した者もあったが、現金収入の少かった当時の農村にあっては、借入れた資金の返済が容易ではなかった上に、よい耕地は地主が手離してくれない事情もあって、政府の意図した程の成果は上らなかった。その上昭和六年(一九三一)から日本は次第に戦時体制に入り、米麦の供出が厳しくなり、この恩典も利用することが出来ず、結局地主、小作という農村の姿のままで大平洋戦争の敗戦を迎えたのである。