農地改革は、前述のように行なわれたのであるが、その結果、解放をうけた小作人側にとっては此上もない喜びであっても、地主側にとっては、全くあきらめ切れないものがあった。例えば、解放価格をみると、大体水田一反歩(一〇アール)七百円、畑一反歩四百円内外というわけで、当時自由価格で米一升一五〇円から一七〇円位であったことと比べてみると、地主側の心境がうなづけるわけである。
そこで、旧地主側は、昭和二九年(一九五四)から結束を固め、全国的な組織をもって、政府に対し、農地対価の補償を講じるよう強力な運動を展開した。
この運動のため、全国解放農地補償連合会を結成し、昭和三一年一月二八日には、千葉県同盟が成田山新勝寺大講堂で結成された。この時増田義朗(徳増)は、長生の地主千六百人の代表としてこれに参加、県の理事に選ばれ、要求の達成に献身的な努力をした。氏は、法案成立の思い出を次の如く述べている。
「私は、長生郡の地主千六百人の代表に推され、千葉県同盟の理事として終始この運動に参加した。上京すること百有余回各会場の大会、衆参両院会館、首相官邸、私邸、関係大臣私邸等あらゆる所に陳情をくり返し、時には座り込みもしたが、壁は厚く、なかなか実現の運びに至らなかった。運動を開始して、ちょうど一〇年目の昭和四〇年五月一四日に漸く法案が、衆議院を通過したが、参議院でどうなるかわからない。私達は、この国会の期間中、東京に泊り込んでいたので、五月二六日、午前九時二九分議長職権によって参議院本会議が開かれるのを聞き、早速傍聴した。野党の牛歩戦術、さみだれ戦術により二昼夜、所用時間四九時間、どうどうめぐり二二回の後、二八日午後一〇時五五分、賛成一二一票反対六九票で可決成立したのであるが、私達は、その夜遅く関係議員に挨拶をし宿舎に帰った。誠に感無量なるものがありました。」。
これによって政府は、昭和四〇年(一九六五)六月三日、被買収者が、敗戦日本の再建に寄与した功績は、誠に大きいとし、功績に報いるという名目で、農地補償の措置がとられることになった。即ち同四一年三月末までに、被買収者から「農地報償請求」をうけ、農業委員会がその事務を取扱うことになった。この報償金は場所により差はあるが、大体反当り三万円位で、一〇年年賦で支払うようきめられたので、地主側も一応納得したものである。