農事改良のため、農民に対して、講習会を開いたり、品評会や共進会を開いてその質的向上を奨励するということは、望ましい手段である。その内容をみると、明治三七年(一九〇四)には、木炭製造、養蚕飼育に関する講習会、同三九年三月には落花生栽培についての講習会を開いている。落花生についての通達文をみると「落花生ハ将来本県ニ於ケル有望ノ生産品ナルヲ以テ之ガ奨励ノ為、特ニ本業ニ経験アル織田講師ヲ聘シ云々」とある。しかしその後落花生は殆んど栽培されず、大正元年(一九一二)に僅か一一戸が試作している程度であった。
同四四年に入ると、稲作技術講習会が急に多くなってくる。中でも注目すべきものに、「稲架乾燥法についての講習」や技術指導が重視されてきたことである。その効果は、大麦で三合増になるといわれたが、その実行は思うにまかせなかったものか、同年一〇月一〇日付で、村農会から、村の稲架乾燥法実行委員二九名宛の通達には、
「水稲ノ架乾法実行奨励ニ関シテハ、前年度(四三年)ニ於テ、管下ニ奨励委員ヲ嘱託シ之レガ普及ノ指導ヲ委嘱致置キ候処、本年モ既ニ該法実行中トハ承知致居候ヘドモ此際極力之レガ普及ヲ計ラルル様御手数相煩シ度尤モ巡回指導ヲ要スル際ハ県農会ヨリ役員又ハ技術員出張可致候条右御了承ノ上他日迷惑無之様御取計相成度追而日割ヲ定メ本会ヨリ郡農会技師同行成績歩合視察ノ都合モ有之ニ付実行結了ノ場合ハ其旨御報告相煩シ度右及通牒候也」。
長柄だけでなく、日吉や水上に対しても、同じようにその実行を進めている。しかし大正八年長柄米穀検査員山岸和助から郡農会への報告(3)をみると、稲作反別六〇二町、架乾反別三〇五町、架乾歩合五割とあり、その徹底は困難であったことがわかる。