米穀検査制度の実施

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明治末期になると、農事改良政策は、従来の害虫駆除予防や田稗抜取などに加えて、産米調整、俵装改良、品種改良、肥料改善などの通達が急速に多くなってくる。これは、政府が、本格的な産米改良を進める伏線であって、やがて「米穀検査制度」を実施する準備ともいえるものであった。本県では、明治四四年(一九一一)この制度を県会に上程したが、時期尚早として否決され、大正元年(一九一二)可決された。そして、大正二年茂原に米穀検査所茂原支所が設けられ、各町村には、派出所を設け、米穀検査員が派遣された。これによって、農家で生産された米は、特別許可を得たもの以外すべて検査をうけることになった。
 検査は、米の品質の良否だけでなく、俵装についても、二重俵にし、その内俵、外俵のあみ方から縄のかけ方まで事細かに調べ、極めて厳しいものであった。
 そしてこの制度実施二年後の大正四年五月、各町村に「米穀改良組合」の設置を促している。(5)
 その設置の経緯を次に記しておく。
 本県産米改良のため米穀検査制度を設けたが、実施後三年目に入るのにその成果はあまりパッとしない。「僅ニ旧来ノ三八米ノ劣等的貶称ヲ脱シテ単ニ茂原米トシテ佐原米ヲ凌駕スルニ至ルニ過ギズシテ、横芝米ニ比スレバ今尚ホ両五勺ノ安価ニテ取引サルルモノ有ルハ深ク遺憾トスル処……」と述べ、その原因を「因襲的稲作法ヲ墨守シ改良ニ依ラザルモノカ、或ハ収穫後ノ取扱ノ不完備……」にあるとし、産米改良の効果をあげるため「米穀改良組合ヲ組織シ隣保相互ノ自動的米穀改良ヲ計ルコト……」を通達したのである。
 これにより、旧日吉村徳増では、同年九月一日、「徳増区米穀改良組合」を結成している。(6)
 この規約をみると次の一〇項目の事業があげられている。
 
  一 稲作改良を図ること
  二 稲の栽培管理法の改良を図ること
  三 種籾の干燥法の改良を図ること
  四 米の俵装準備を整え材料検査執行の幇助をすること
  五 米の俵装容量を完全にし米穀検査の準備を整え、且つ検査執行を幇助すること
  六 農業用品の共同購入農産物の共同販売を行うこと
  七 自給肥料を作り施肥法を改良すること
  八 農業道徳の発達農業の改良に関し農談会を開催すること
  九 県郡町村の示達する農政事項の実行に努むること
  十 其他米穀改良に必要なる事項

 
 さて、その後、大正六年(一九一七)四月長柄派出所米穀検査員山岸和助が、茂原支所に提出した「稲種別検査成績報告(大正五年度分)」(7)をみると、検査総数一二八八四俵で合格六一八八俵、不合格六六九六俵となっていて、半数以上が不合格米ということになる。
 合格米も三等級に分かれ、甲四四俵、乙一九六〇俵、丙四一八四俵で殆んどが丙である。ところが、大正一一年四月の報告書(8)によると、検査総数一一一〇六俵の中合格一〇四八一俵で不合格は僅かに六二五俵である。
 これは、どんな理由によるかを検討してみると、大正一一年には合格基準が四段階(甲・乙・丙・丁)となったこと。稲の品種が大正五年には一九種類にも及んでいたが、その後次第に改良され、優れた品種を選ぶようになり栽培法や俵装技術も向上したことによるものである。
 なお、米穀検査員には、単に、検査、監督をするだけではなく、米麦の種類の統一や採種田に関すること等農事改良上の指導や奨励を行なわせ、農民にも組合をつくり自発的意欲をもり上げたことによるであろう。こうして、大正末期から単なる強制ではなく指導奨励による農政へと転換していったことがうかがえる。