安政六年(一八五九)の開港によって、急激にクローズアップされた貿易品は、茶とならんで生糸と蚕卵紙であったと言う。生糸の輸出量は、熨斗糸、生糸、屑糸などを含めて、明治元年(一八六八)、約一四〇万斤、六年が一五八万斤と増加し、蚕卵紙も、一八九万枚から一四〇万枚と多少の変化はあるが大変な量に上っていた。明治六年(一八七四)海外貿易表(郵便報知)によると、輸出総額二、一一四万円中、生糸が七二一万円で蚕卵紙が三〇六万円と一・二位を占め、他の品物を断然圧倒している。まさに養蚕王国の感があるが、その生産は一部に限られ、熊谷、筑摩、福島、山梨など十県位に集中し、本県の如きは全く圏外にあったようである。ところで、郷土長柄はどうであっただろうか。
宝暦元年(一七五九)末十一月、長柄郡立鳥村明細差出帳(大野善八家文書)には、「紙、綿、其外諸運上一切御座なく候、蚕、御座なく候」と記されている。その後の事は資料に乏しく明かにし得ないが、古老や養蚕家の話によると、明治の始め頃には、養蚕が行なわれていたのではないかとも思われる。
その一つは鶴舞藩の勧農政策である。(1)鶴舞藩は、遠州(静岡県)から上総の地に国替えさせられて、来る時、旧領地から養蚕教師を連れてきたという。明治四年(一八七一)管下の市原郡山口村外三村と、長柄郡鴇谷村、味庄村などに、生産係の者を出張させ、官費で試験的に蚕の飼育をすすめた。この両村が選ばれたのは、天然の桑の木が、付近の山林中にあったことによるものであった。しかし桑の木に良質の葉が繁らなかったので、結果は甚だ不作に終ったということである。
それにしても、このような上からの指導と住民の理解によって、養蚕に関心をもつ者が増してきたと思われる。その後、多賀大郎家文書によると、明治七年(一八七四)に、長柄郡養蚕世話人、高師駅土橋栄吉から、各村々へ二つの通達が出されている。その一つは、四月六日付のもので、「蚕種製造規則によって、勝手に自製の種紙をつくると犯罪になる。必要な蚕卵紙は、蚕種原紙製造人までまとめて四月一〇日までに報告すべし」というものである。なぜこんな通知を出したかと言うと、日本製の蚕卵紙を買ったイタリヤで、たくさんの微粒子病が発生し、日本の蚕卵紙の評判が極めて悪くなったので、政府が、蚕卵紙製造業者に対し、次のような通知を出して、注意を促した為である。「蚕種製造ノ儀、近来杜撰(ずさん)ニ相成リ、濫製有之趣相聞エ、以テノ外ノ事ニ候。ヒツキヨウ、無識ノ細民タダ自己目下ノ小利ヲムサボリ、遂ニ御国産ノ品位ヲ落シ、……不心得ノ事……」と。
その二は四月九日付のもので、「養蚕戸数の有無を調査し、四月一四日午前八時までに、高師駅松本文平宅まで出頭し報告すべし」という戸長宛のものであるが、その結果の記録は明かではない。
さて表1は、明治一〇年、上総国の各郡の繭生糸実綿の生産量を表わしたものであるが、これをみると武射、夷隅、埴生が多く、長柄は全く微々たるものである。然し養蚕家の話によると、明治三五年の台風で、別所の風戸正雄さんの養蚕場が倒壊したが、それ以前から同家だけでなく、多くの家で養蚕を営み、徳増、水上などでも行なわれていたと言うことで、何軒かは、明治一〇年代から飼育が始ったのではなかろうかと推察される。
表1 |
明治10年上総国の生産量(千葉県史) | |||
郡 名 | 繭 | 生 糸 | 実 綿 |
(斤) | (斤) | (万斤) | |
天 羽 | ― | ― | 32 |
周 准 | ― | ― | 34 |
望 陀 | 141 | 19 | 105 |
市 原 | ― | ― | 59 |
夷 隅 | 337 | 28 | 84 |
埴 生 | 300 | 23 | ― |
長 柄 | 4 | 2 | 118 |
山 辺 | 100 | 5 | 130 |
武 射 | 439 | 149 | 30 |
計 | 1,321 | 226 | 592 |
然し養蚕が、農家の副業として、盛んになり始めたのは、明治二〇年頃からで、二三年には数倍にふえている。
その原因はいろいろ考えられるが、一つは、茂原町の板倉胤臣の功績を見のがすことはできない。明治一八年(一八八五)桑苗一〇万本を群馬県地方より購入して養蚕家に配布し、桑園の改良に力を尽くし、一九年以後、長柄と埴生殖産集談会をつくり、リーダーとして活躍、また、春蚕のみであったものを夏秋蚕の飼育に広げ、次第に大規模な飼育所を建てる機運を高めるなど、すばらしい活動をした。長柄では、柴崎民五郎が、明治二三年一月三〇日に、磐城国(福島県)田村郡三春町字仲町、長沢源八郎に桑苗二万本(一年生)を注文して養蚕振興を図っている。(2)種類は、高野一万本、嶋の内一万本となっているので、相当に広く行なわれていたと思われる。そのほか、県や郡の農会の指導も大きかったが、同時に、養蚕が、農家の収入源として最も有利な副業であることが証明されたからである。
即ち、明治二三年、千葉県統計によると、大工や左官の一日の手間は二二銭程度で、農家の年季雇い男一年分の賃銭でも一六円位であるのに、養蚕農家の収益は一戸平均一三円―一五円位に及んでいた。このため、養蚕は、割がよいというので、明治末から大正にかけ、大きく伸びてゆく。『長生郡誌』によると、明治四三年頃長柄村の養蚕について「養蚕盛、繭は本郡中第一位」と記されている。
このような状況であったので、製糸業も、明治三〇年頃から盛となり、機械ぐりによる製糸工場も設立されてきた。上の表は、長生郡に於ける、機械製糸工場とみなされるものをあげてある。尚県全体では、明治三四年二九工場、三八年二二工場、大正二年一四工場と減少している。
表2 長生郡製糸工場(千葉県史による) |
年度 | 所在地 | 工 場 名 | 設立年 | 女工数 |
明治34 | 茂原町 〃 | 共進社製糸場 信弘社茂原製糸場 | 明33 明34 | 50 50 |
〃 38 | 茂原町 〃 帆丘町 | 共進社製糸場 信弘社 〃 山本 〃 | 明34 | 44 30 50 |
大正 2 | 茂原町 〃 | 長生館 報国館 | 明33 明44 | 45 49 |
この中、共進社製糸工場は、明治三三年日吉村の人、前橋寅蔵の設立したもので、本郡に於ては最も早い時期に設立され、製糸業発展のいとぐちを開いたのである。工場には、蒸気機械をすえつけ、釜数は一七五個を設置、最盛時には、男女工員二百人位を使い、年々六七万円の生糸を産出したという。