衰微の時代

314 ~ 316 / 756ページ
大正の終から昭和二・三年頃まで順調にのびてきた養蚕業も、世界的な不況と、人造絹糸という驚くべき競争品の発明によって、生糸の需要は著しく減少した。即ち、大正一四年(一九二五)には、帝国人造絹糸株式会社が設立され、その組織力と莫大な資本金を活用し、普及宣伝に努めたので、昭和三年から五年頃にかけて、絹糸、絹織物の領域はすっかり圧迫され、大打撃をうけ、従って、繭価の暴落も甚だしかった。
 そのため、六年頃から養蚕家の間に動揺が出て、桑園を廃するものが、ボツボツあらわれ始めた。
 では、当時の養蚕は全く割に合わぬものになってしまったかというと、第一〇表が示すように、他の農業に比して決して悪いものではなかった。この表は、昭和四年一〇月長生養蚕組合聯合会の調査によるものであるが、桑園一反歩(一〇アール)の養蚕収益が八五円、水田一反歩の利益が二四円で、差引六一円の利益となっているのである。そのため国でも、昭和六年に法律第二四号を以て、蚕糸業組合法を発布、従来まちまちであった組合を、養蚕実行組合に一本化し、養蚕業の振興を図ってゆくようにした。
 
表10 桑園1反歩の収益(林勘五郎家文書)
支出之部収入之部



耕 耘8人春 繭   12貫
除 草2 1貫7円として  84円
結束解束2 秋 繭   15貫
台 付2 1貫6円として  90円
施 肥2 合計金       174円
収 穫7 
(切取段付
摘 葉
2 
5 )
飼育労力33人差引利益85円
合 計56人米と養蚕との比較
1人1円として56円米の利益1反歩に付24円
肥料代25円養蚕利益1反歩に付85円
蚕種代8円差引養蚕利益61円
合計金89円

 
 しかし、満州事変、日支事変、第二次大戦と戦時体制がつづき、食糧増産が第一となり、養蚕業は急速に衰微の一途を辿っていった。
 第一一表は、本県の養蚕業の推移を示したものであるが、昭和一七年(一九四二)から二〇年の間が特に減少している。戸数は二万三千戸から六千戸と約四分の一に、面積でも一万一千町歩から二千五百町歩とやはり四分の一に減少している。旧長柄村でも第一二表によると、昭和二年三八戸が二六年に僅か一一戸に減少しているのである。